保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう(15)太平洋戦争の日々~
(1)学童疎開、勤労動員
昭和史は太平洋戦争をどのように検証してゆくかが大事なカギになる。
国のシステム全部を軍事の形に変えてゆく。
児童、生徒、女性あらゆる人たちが、軍事の機構の中に組み込まれてゆく。
昭和16年12月8日 太平洋戦争に突入。
日本の国力は米国、連合国軍等にくらべると、途轍もなく開きが有った。
3年8カ月戦争が続くが、1年7カ月ぐらいで戦力が相当ダウンしてしまうので子供といえども銃後の守り、産業戦士と言う様な形で戦争に組み込まれていく。
勤労動員
工員、技術者が戦争に行かざるを得なくなる。
学生、生徒がこの埋め合わせをしなくてはいけなくなる。
昭和18年6月に政府が学徒戦時動員体制確立要綱を決める。(15歳以上の生徒が対象)
学業を中止して工場で働く様になる。
軍事工場が無い地域は遠方に行く事になる。
19年7月には旧制中学全員(13歳以上) 国民学校高等科の小学生5年生、6年生まで動員されることになる。(11歳、12歳ぐらから)
作業もあまり知らない状況で行うので、労働時間がかなり増える。(10時間と言うところもあった)
高等女学校の女子学生も勤労動員の対象になる。
作るものの質は上質ではなく、粗悪品しか作れないという事もある。
作家 早乙女 勝元さん12歳で学徒動員 (昭和7年生まれ)
半藤 一利さん 0戦で使う20mm機銃弾の薬きょうを造ったりしていた。(昭和5年生まれ)
無着 成恭さん 山形中学の5年生 動員日記を付けていた。
中島飛行場に行っていた。
文部省は300万人動員する予定だったと言われる。
学童疎開
19年1月から学童疎開が始まる。(任意) 最初東京が中心。
19年7月18日にサイパンが陥落したが、サイパンからB29が飛んでくると一気に日本の本土に来ると思われ、疎開がかなり集中的に組織だって行われる様になる。
(7月7日にサイパンで玉砕)
東条内閣が総辞職する。
アメリカの爆撃機が来ると予想され緊急を要する為7月8日に学童疎開の実施が行われる。(強制)
小学校3年、4年生が集団疎開の中心になった。(首都圏中心にまず始まる)
アメリカの爆撃が広範囲になってゆくので他の大都市も行われるようになる。
昭和19年10月ごろから爆撃が激化してゆく。
①北部軍管区(北海道) ②東部軍管区 (東北、関東、甲信越、北陸 )
③中部軍管区(東海、近畿、四国) ④西部軍管区(中国、九州)
日本の軍需産業の中心地がこの区域にそれぞれある。
昭和20年になると爆撃がかなり日常化してゆく。 学童疎開は各地域が対象に広がってゆく。
疎開病 単なるさびしさではなくて、そういう心理状態から呼吸、内臓疾患、子供なりの幽鬱な精神状態等を総称して疎開病といった。
疎開病を味わった人たちはかなり多いと思います。
この世代の人たちは長じて、作家になった人が多い、野坂昭如、藤本義一、黒井千次さん等。
文学的に何か書き残そうと思ったのではないでしょうか。
海老名 香葉子さん (林家三平の奥さん) 「ことしの牡丹はよいぼたん」 エッセー
学童疎開のことを記載している。(学童疎開に行くときの家族との別れなどの悲しさを記載)
沖縄の学童疎開 19年8月22日に始まる。
船で南九州に疎開しようとして出航するが、アメリカ軍の魚雷に依り沈没してしまう。
対馬丸の悲劇 1500人位が亡くなる。(学童疎開の悲劇)
日常生活、戦争とかかわりのない子供達にも戦争の厳しさ、恐さが日常に入ってくるという事を知っておく必要がある。