2015年4月24日金曜日

川口有美子(日本ALS協会理事)  ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)

川口有美子(日本ALS協会理事)  ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)
東京出身の52歳 20年前夫の転勤でイギリスに住んでいたときに、実の母親が難病のALSを発症しました。
筋委縮性側索硬化症と呼ばれる神経の病気で、身体が動かしにくくなって筋肉が痩せていきます。
進行すると手足だけで無く、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、器官切開して呼吸器を付けるか否かの重い選択を迫られることもあります。
母親の発症当時、主婦だった川口さんはイギリスから帰国して介護にあたります。
そして同じ病に罹った患者や其家族、周囲の人達と支え合い12年間の介護の末に、母親をみとりました。
そのご川口さんは介護の体験を著書「逝かない身体」に纏めて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

1995年に母のALSの病気をイギリスに住んでいたときに、母からの電話で知った。
調べたらとんでもない病気であることを知った。
夫をイギリスに残して、子供と帰国する事になる。
母を看取ってから又イギリスにもどってくることを考えていたが、実際には帰れなかった。
私が帰ってきたことにより、孫の顔をみて、介護体制ができ、母は呼吸器を付けたいという風に、考えが変わった。
父と妹はそれまで介護していたが、介護に疲れていて、帰国したときには家族の笑顔はなかった。
暫くは病院にいて、泊まり込みで母のそばにいて、母の手に鈴を縛り付けて、鈴の音で起きて吸引したり、排泄の介助をしていたりして、24時間貼りつく壮絶な介護をスタートした。
重度身体障害者でしかも意識がしっかりしている介護は、大変特殊な介護でした。
やり始めたら是は大変で、何時まで続くのかと思った。
寝たきりだが、意識がはっきりしている。

母が言いたいことが有りそうだと、眼をぱちぱちっとやるので、文字盤をもって行って、透明な板に50音が書いてあって、母が目で見詰めた処の文字を拾っていってコミュニケーションを取るが母が起きている間中していました。
自分のことができなかった。
妹は仕事に出かけていたので、帰って来てから母の文字盤取りをやるので、夜は寝てもらうが母が3時間ぐらいで起きてしまう。
父は朝の4時ぐらいから交代して、妹は寝床に入って仮眠して会社に行くという状況でした。
3交代体制でした。(私、父、妹)
手、身体が重いという意思表示があったりするが、身体は動かないのに身体の重力の影響で感じるらしく、それを誤魔化すのにずーっと動かしてあげる。 足、手、お尻など(身体の微調整)
痰の吸引(15分おきに吸引)、排泄、眼薬さしたり、ずーっと体の管理をしつつ、文字盤を読んで時々和やかな会話になったりするときもある。
家族も風邪を引いたりするので、高熱が出ていても文字盤を取るようにという事で、休ませてくれなくてぼろぼろでした。

一番腹たったのは3歳の子供がインフルエンザで高熱を出して、母に呼吸器を付けて小児科にというわけにもいかず、でもこのままにしていたら子供が死んでしまうかもしれないので、母に言った時に駄目と言ったんです。
母は「あきらより自分の命なのね」 とか皮肉なことを言って母が泣いたりした。
家族の関係って言うのは修復ができないぐらい、ずたずたにするんです、この病気は、それが恐ろしい。
介護保険前の時代だったので、家族だけで全部やって下さいという時代だったので、私は実家に取られてしまったような状態でした。
最初私の家庭の事、母の介護の両方とも頑張ろうと思っていたが、きびしかった。
呼吸器を付ければ進行しなくなると思っていたが、呼吸器を付けても進行するので、主治医の先生に言ったが、私はちゃんとわかっていなかった。
無駄な事をしてしまったのかと思いました。
母は眼も開けられなくなって、呼吸器を付けなければよかったねと、無理やりイギリスから帰ってこなければよかったのではと思ったりして、徹底的に自分を責めてしまって落ち込んでしまって、「ごめんね、ごめんね」と思っていたが、「ごめんね」は間違っていると思った、母が頑張って生きている事に対して、「ごめんね」は否定する事になるので、それは間違っていたと思った。

親子喧嘩で呼吸器をはずしたりしたこともある。 売り言葉に買い言葉で「呼吸器を取って」というので「取ってやる」と取ったりしたこともあるが、殺すことはできない。
そんなことを父も妹も似たようなことが有った様です。
日本ではいったん呼吸を付けると外せない事になっている。
安楽死の検索をするようになって、安楽死ができるという、2000年にオランダで法案が通ったことを知る。
なんで日本ではできないのか調べ始めた。
学者等にメールを打ちまくった。
返事は森岡 正博先生と立岩 真也先生(立命館大学)から返事が来た。
介護は家族だけでやるもんだと思っていたら、区に問い合わせたらヘルパーの制度が有ることを知る。
それで段々楽になっていった。
メールを介して人とのつながりもできるようになった。

外にいけるようになると、自分がやりたいことを自分でやる様になる。
貯金を全部使って、まずチェロを購入した。
訪問看護師さんが妹に「あなたたち兄弟はどんな悪いことをしても、許されるのよ、神様にゆるしてもらえるから。」と言って帰ったと聞いて、悪い事って何だろうと考えたが、訪問看護師さんがそう言わしめたぐらい、はたから見るとそれぐらい大変だった。
生真面目な良妻賢母を止めることにした。(悪いこと)
娘にバイオリンを習わせていたが、ギリギリの環境の中では、私も娘も面白くなかったので辞めさせて、塾、英語、水泳全部やめました。
自分がやりたいものを一切辞めていたが、するようになった。
チェロ、パソコンをやり始めてそれから変わって行って、情報収集をして、客観視出来るようになった。
フラメンコもやり始める。(ラテン系の性格が芽生える)

仲間を増やそうという思いが出てきて、会社を興した。
長く続けるためにはボランティアではだめで、有償でやらないと駄目だと思う。
どういう風にヘルパーを募集して、どういう風に養成して言ったらいいか障害者のところで聞いた。
アルバイト募集雑誌に広告として出して、最初は私の母で研修、文字盤を教えて行って、自分の会社に登録して、他の患者さんのところに派遣して会社経営をするようになった。
区の行政の人からも頼まれるようになりました。

母は元気なころは、認知症の家族を支援する会をしていたメンバーの一人だったので、介護の問題を社会の問題として捉えていたので、選挙が大事だと思っていて、寝ていても郵便投票出来るという事で取り寄せたが、自分で書かないといけないという事で、それはおかしいという事になり、新聞社が来て聞いてきて、そのときは眼を輝かせていて、私は母が戻ってきたと感じて、母も変わって来て、この病気は貧困の人がなったら大変だとか生活保護のこととか、、自分の事ではないことを言い出して、それが母の生き甲斐になってきた。
母が生き生きしてくると介護も変わってくる。(そのころからヘルパーさんも来たので私自身も助かった)
法律を変えなければいけないという、生き甲斐を見出したと思う。
呼吸器を付ける段階は、生き甲斐なんて、ほとんどの人が見いだせない、絶望している時に呼吸器を付ける。
社会的な意義だけではなくても、ベランダで花を育ててそれを楽しみにしている患者さん、ペットを飼うとか、孫の成長を見届けたいとか、そういう事に生き甲斐を見出してゆく人がいます。
一生懸命になってALSの支援をしている人がいて、その魅力は人間性があらわになってくるところ、、どん底で不幸そのものからたち直ってゆくのを、すぐ近くで見ている快感、それでALSに魅了される。