小池真理子(作家) ・今、夫の死に思う
東京生まれ、69歳 現在長野県軽井沢で執筆活動をしています。 26歳の時にエッセー「知的悪女のすすめ 翔びたいあなたへ」で作家デビュー、1995年に「恋」で直木賞を受賞しました。 今年受賞から27年目になるという事です。 同じ直木賞作家藤田宜永さんとはオシドリ夫婦として知られていましたが、一昨年の1月に肺がんで亡くなりました。(69歳) 夫との別れを綴った「月夜の森の梟」が昨年11月に出版されました。
闘病が1年と10か月でした。 1月30日に亡くなりました。 末期がんだと宣告されて心の準備はしていたつもりでしたが、37年間一緒にいた相棒が食べられなくなって背中が痛くなってゆくのを間近で見てきて、或る意味では荘厳なんですが、最後の1か月ぐらいは言葉では言い表せないような状況でした。 最後の最後まで家でいて私自身の肉体のような感じになってきて、精神的なところも我がことのようになって行っちゃうんです。 病院でなく自宅でよかったなと思っています。 肺がんなので酸素吸入器をレンタルでセットして生活は出来ますが、肺がんの場合の最後は本当に酸素が足りなくなって、本人が苦しむので、ずーっと自宅ということは出来ないだろうから覚悟しておいてくださいと言われました。 最後に一日だけは病院でした。
子供のころからの生活環境のせいでしょうが、妹とは8つ違いなので一人遊びをすることが好きでした。 彼が死んで一人になってもそこまでは寂しくないだろうとたかをくくっていましたら、やっぱり寂しいですね。 夫との別れを綴った「月夜の森の梟」というエッセーですが、そこにも書いているんですが、自分自身が分断されているんです。もう元には戻れないんじゃないかとか、そのぐらいの欠落感があります。 オシドリとかの次元はとっくに超えているんですよ。 自分の半身だったんだなというのが強いです。 半身失った虚しさは生涯埋まるという事はないと思います。 作家同士の夫婦だったので周りの人たちの事はほぼ一緒に知っているわけです。 そういうのも原因になっていると思います。
1995年に小池真理子が「恋」で直木賞を受賞し、5年後に藤田宜永が『愛の領分』で直木賞を受賞。 島清恋愛文学賞を「欲望」で受賞、翌年藤田宜永は「求愛」で島清恋愛文学賞を受賞。 吉川英治文学賞を2013年に『沈黙のひと』で受賞、4年後に藤田宜永が『大雪物語』で吉川英治文学賞受賞。
夫は饒舌な人でした。 自分のことを正しく理解してもらいたいという事が根底にありました。 彼は一人っ子でした。 理解はしていたと思います。 子供を作らない選択をしたのでいつも家では二人でした。 酒を飲んで一晩中小説のこと、人間分析とかいろいろなことをしゃべっていた時期がありました。
夫との別れを綴った「月夜の森の梟」というエッセーですが、追悼エッセーを引き受けて書いて新聞に掲載されましたが、編集部にいろいろな手紙が届いて、「藤田さんにまつわる心象風景を描いてみませんか」と言われて、一旦保留にさせてもらいましたが、言葉があふれ出てきて、書くことによって救われてゆくという事も知っていたので引き受けました。 彼の死から5か月後から連載を始め一冊にまとまったのが「月夜の森の梟」です。 メール、ファクス、手紙が届いてきて終わった時は1000通を超えていました。 読むたびに励まされているというような内容でした。 嬉しく読んでいました。 藤田宜永の言葉で「齢を取ったお前を観たかった。 見られないと思うと残念だな。」というのがありますが、亡くなる3週間前ぐらいです。 共に一緒に生きたかったという事ですね。 パニクっていたという様な状況下だったので、直後に書いたという意味では二度と書けないですね。 夫婦がとりあえず健康で一緒にいられるという事以上の幸せってなかったなあと今さらながら思います。
「神よ憐れみたまえ」 570ページの長編小説 2011年ぐらいから書き始めて10年間かけて書いた作品です。 父を看送って、母を看送り、夫を看送って書き上げました。 「モンローが死んだ日」と「死の島」は連載が決まっていたので、そっちが優先になってしまいました。 「モンローが死んだ日」は書いている時には全然気にならなかったが、後で考えてみるとまるで私みたいだと思いました。 「死の島」が単行本として刊行された直後にステージ4の肺がんだとわかりました。 モデルは藤田さんだったんでしょうと言われましたが全然違って創作に過ぎなかった。 ちょっと休みたいところですが、6,7月にだす作品があります。