林英哲(太鼓奏者) ・太鼓と共に世界に飛び出す
1952年広島県生まれ、1971年「佐渡・鬼太鼓座」、「鼓童」の創設にも関わり、1982年に太鼓独奏者として活動を開始、1984年に和太鼓ソリストとして初めてカーネギーホールで演奏し、以降世界各地で演奏活動をしています。 伝統的な音楽をはじめクラシック、ジャズ、民族音楽などジャンルにこだわらず様々な演奏家やアーティストと共演をして、今年ソロとしての活動40周年を迎えました。
太鼓を始めてから今年で51年目で、ソロ活動は40年になりました。 太鼓を独奏で人に聞かせるものがありませんでした。 よく続いたなと思いました。 太鼓に正対して打つという事は伝統芸能にも郷土芸能にもないんです。 独奏でやるには2人分のテクニックが必要で、ベースのリズムと和拍子というメインのリズムを一人で打ち分けなければいけない。 左手も右手と同じように使えなければ、リズムの構成が出来ない。 完全に太鼓に正対して、お客さんに背中を見せながら打つという形になりました。 伝統芸能にはないです。 一般化されるようになりました。
実家は真言宗の寺院では男女4人、4人の兄弟で末っ子です。 孫みたいな子だったので、そのうち面倒みられないかもしれないという事で、甘やかされて育ったので、絵を描いたりドラムを始めても親は何にも云いませんでした。 ビートルズが好きでした。 ベンチャーズの影響で友人がギターを買ったりしたのでバンドを4人で結成しました。
横尾忠則さんみたいな仕事をしたいと思って美大を受けましたが、落ちてしまって東京で浪人しました。 横尾忠則さんが参加する佐渡でのイベントがあるという事をラジオで聞いて、それに申し込むというのがこの道に繋がる最初のきっかけになりました。 佐渡の地域おこしのために太鼓を打つという事で、強引に誘われて7年で世界中を回って、という事でした。 11年やりました。 音楽的な経験を世界中で積むようになってはいました。 美術の方に戻るつもりでいましたが、小澤征爾さんとか音楽的にレベルの高いものを舞台でやるという経験を積んできて、美術はゼロからのスタートとなるし、太鼓しかないので、ソリストとしてスタートをしました。
2年後に カーネギーホールから声がかかってきました。 ただ使える太鼓がないんです。 僕が舞台で使う太鼓は家が一軒建つような値段なんです。 それよりちいさくても数百万円です。 レンタル屋さんに相談したら、カーネギーホールで傷物では恥ずかしいという事で、出世払いでいいからという事で最上級の品質のものを用意してくださいました。 航空便なのでどうしようかと思ったら、永六輔さんが声を掛けてカンパしてもらってお金が集まることが出来ました。 航空会社の広報の方が僕の舞台など見て知っていて、航空会社で肩代わりしますと言っていただきました。 全部タダで出来ることになりました。 リハーサルを始めると大抵一悶着ありました。 太鼓の音が尋常ではないので。 なんとかこなして、結果大好評でした。 それをきっかけにベルリンフィルから声がかかったり、いろいろなところでやるようになりました。
海外でやる方が多くなりました。 初めて聞いてもスタンディングオベーションでした。 リハーサルやってもオーケストラ団員が拍手してくれます。 太鼓は楽器という事ではとらえられない雑音成分の多い音なんです。 本来オーケストラと共演するのには無理があるんです。 倍音を含む雑音成分の多い音は人間の心理を掻き立てたり、興奮したり、懐かしい気分にさせたりするらしいんです。 海外ではよく泣いて聞く人が多いです。 楽屋まで来てなんで泣けてしまうんでしょうと聞きに来た人もいましたが、僕にもわかりませんでした。 書物を読んだりして気が付いたのは、母親のなかで胎児の時に聞いている音がそっくりらしいんです。 雑音成分が多い音で、母親の心臓の音がして、羊水の中なので皮膚感覚でその振動を受けて、ずーっと寝ているわけです。 生まれる前は人類はみんなあの音を聞いて育っているわけです。 日本固有の音と思っていたものが、実は人類共通の音で大人は懐かしいような切ないような感じになって涙が出たり、乳幼児はまず熟睡します。 50か国以上いっていますが、人種に関係ない、反応は国の違いはないんです。
オーケストラの中に入ってもちゃんと音楽的に成立するという事が実現できたので、お祭りで打って居る太鼓ではないというところが、一つ扉が開いたという事はありがたいことだと思います。 或る美術ギャラリーで演出を含め、すべて一人で1時間以上やる機会がありました。 それが好評で大きなコンサートホールでもやらせてもらうようになりました。 去年の50周年の時には一人で2時間やりました。 演出、振り付け、衣装、照明等も自分で考えてやりました。
自分のことを認めてくれなくてもコツコツ作ってゆく、おこがましいがゴッホのようでありたい、ゴッホは生前は全く無名だったが、亡くなってから大変な画家と認められた。 名前の出なかった美術家をテーマにして、光を当てて皆さんに知って貰おうと思って、無名ではないですが、写真家では有名なマン・レイを取り上げて見ました。 石をぶら下げて打つと金属的な音がして、僕なりのマン・レイを解釈して太鼓と組み合わせてやりました。 伊藤若冲も有名になる前にやりました。 ジャンルを超えていろいろ共演もしています。 2/4にサントリーホールで(2/2が誕生日で70歳になる。)ジャンルを超えた演奏会を行います。