藤野高明(元盲学校教師) ・文字の獲得で道が開けた
1938年(昭和13年)福岡市生まれ。 昭和20年4月国民学校に入学、翌年近くで拾った小さな鉄製のパイプで遊んでいたところこれが爆発、弟さんは即死、藤野さんは両目の視力と両手を失いました。 不発弾の爆発でした。 以来13年間、手と目が不自由では点字などの勉強ができないと学校は受け入れてくれませんでした。 しかし視力回復手術を受けるために入院した病院で、唇で点字を読む触読に出会いました。 視力は戻りませんでしたが、触読を身に付けた藤野さんは勉強に励み、20歳で大阪市立盲学校中学部2年生に編入、学べない子を作らないためにと教師の道を目指し、大阪市立盲学校高等部の世界史の教師を30年間勤めました。 83歳になった藤野さんのこれまでの歩みと視覚障害者の抱える課題をお話いただきます。
教職を目指す学生さんたちには親しみを感じますし、是非伝えたいなあという事もあって、1年に1,2回大学でゲストティーチャーとして講座を持って話しています。 熱心さと誠実に聞いてくれているなあというのが伝わってきます。
「あの夏の朝から75年」昨年自費出版。 350ページに及ぶ労作。 手と光を失って75年を迎え自分の歩いてきた道を考えると、戦争をしないという新しい憲法のもとで生きることが出来たという事、家族を含め友達などに凄く恵まれたなあと思いがあり、その人たちに思い出とか、エピソードを書いて貰おうと思いました。 沢山の人に恵まれ、そして生きるには人生の目的、ロマンを持つんだという思いがあります。
7歳の時に不発弾で 怪我をして学校にも行けなくなって、15歳まで家での生活でした。(8年間) 15~20歳までは目が見えるようになりたいという事で開眼手術のために、福岡の国立病院の眼科に5年間入院して手術等しましたが、回復は見込めないという事になりました。 20歳まで学校には行けず、つらかったです。 18歳ぐらいの時に心が荒れる事がありました。 看護師さんに本を読んで欲しいとお願いしたら、北条民雄の「いのちの初夜」を読んででくれました。 世の中には病気、怪我だけではなくて生きることに辛い思いをしている人がいることも知ったし、言葉に表せないような衝撃を受けました。 点字を唇で読むという事を知って、びっくりしました。 それで勉強を始めました。 人生の目標の一つのきっかけになりました。 光が差し込んでくるような気がしました。 文字の獲得は光の獲得でした。
昭和21年7月18日に不発弾の事故に遭いました。 5歳の弟は即死しました。 私は両手、両目を失ってしまいました。 旧日本軍が使っていた小さな爆発物、単4の乾電池ぐらいの大きさでした。 両親が凄く悲しみました。 両手がないという事で盲学校にも行けませんでした。 20歳で大阪の盲学校に手紙を送って入ることが出来ました。 5年間猛勉強をしました。 生徒会長も担当しました。 頼れることに対して嬉しかったです。 1960年代の大学は障害者に対して冷淡で差別的でした。 教師になるための大学がなかなかなかったです。 日本大学の文理学部 歴史を勉強するために通信教育で入りました。 スクーリングが夏、冬にあり、それは苦労しました。 回りの人たちの援助で乗り越えました。 32歳で大学を卒業、教員の採用試験を受けて通ったんですが、採用までにはいかず、採用期限が切れてしまって、もう一度受けるよう指示がありました。 再度受けて通って、1973年9月29日採用の辞令を貰いました。 感激でした。
世界史なんか嫌いだという生徒もいましたが、苦労して勉強して何かが判る、何かが見えてくる、歴史が見えてくる、そうすると人類の将来も見えてくる、そうすると楽しいものだと話ました。 全盲で離婚の縁にある生徒が相談に来て、私のことが信じられなくて、私の身体を触って貰ったら、急に黙ってしまい泣いて、「信じられない、これから頑張ります」と言ってくれました。 著書には「私は人と時代に恵まれた」と書いています。 時代というのは戦争のない、人権を大事にする、法の下に平等というような時代のことです。 障害者運動の高まりもありました。 障害者にとって学ぶ条件も改善されました。 いろいろな課題が改善されつつありますが、さらによくなっていくことを期待しています。 第37回NHK障害福祉賞を受賞しまして嬉しかったです。