渡辺雅和(東京オリンピックバドミントン混合ダブルス銅メダリスト 渡辺勇大選手の父) ・【アスリート誕生物語】
オリンピック3か月後の、ワールドツアー デンマークオープンで金メダリストの中国のペアを準決勝で破って優勝。 オリンピックが近づいた時にはオリンピックのことはあえて話をしなかったです。 地元大会のプレッシャーはあったと言っていました。 ペアの東野有沙は凄く明るいキャラです。 雄太は入学の頃はどちらかというと暗いタイプでした。 影響を受けて明るくなって行きました。 私から見ても素晴らしいペアだと思います。
小さいころは友達と遊ぶのが大好きな子でした。 運動神経は敏捷でした。 共働きだったので自由にさせていて、勉強は嫌いで成績は中程度でした。 食事の好き嫌いはなかったです。 いろんなスポーツをやらせた方がいいと思っていろいろやらせていましたが、最後に選んだのがバトミントンでした。 野球、卓球、陸上、などやっていました。 土、日もやっていたのが東京都小平ジュニアバドミントンクラブでそこに入部しました。 小学校6年生での全国大会ではシングルス3位になる。 土、日だけで補うような集中力はあったと思います。 苦手な練習は丹念に集中してやっていたと思います。 私はインターハイでベスト8になりましたが、マンツーマンで教えることはなかったです。
福島県の富岡第一中学に進学。 そこでは同郷の後輩が指導していましたので半強制的といった感じでした。 寂しさ、心配はありました。 新しい環境には全然だめで、入学式当日に号泣して携帯から辞めると電話をかけてきました。 週2日の練習がほぼ毎日の練習という事で(2,3日の体験練習で)無理だと思ったようです。 私としては想定内でした。 ゴールデンウイークまでは毎日電話が掛かってきましたが、段々減って行きました。 泣きながらの1時間の電話でしたが8割はお互いが無言でした。 バドミントンに関しては私に、勉強、生活面に関しては妻に電話をしていました。
2011年3月11日 東日本大震災が発生、2時46分に地震発生、3時22分ごろには津波の第一波到来、続いて21.1mの大津波が街を襲う。 富岡町は第一原発から半径5~10km、第二原発からは半径5km、全町民が川内村に避難する。 無事が判ったのは13日の午前中でした。 本人からは13日の午後民家からの電話がありました。 当人は事態の深刻さを理解していないような感じでしたが、最悪のことも私は考えました。 卒業式に行っていた父兄の人に乗せられて、14日に栃木の中央辺りで落ち合う事が出来ました。 東京に帰ってからは私の会社のバドミントンチームに参加して練習をしていました。 ラケットをはじめウエアなども全部チームの方が賄ってくれました。 いろんな方に支えられて今があるのではないかと思います。 2か月後の5月8日に福島に戻って猪苗代で再活動しました。(猪苗代は放射線量が東京都と変わらないデータ値でした。) 猪苗代中学校では体育館がないので、町立の体育館を借りたり、市町村の施設を借りてやっていました。
小学校の卒業式では「オリンピックで金メダルを取ります」と 宣言したが、実は先生からの後押しによる言葉だったようです。 でもオリンピックはともかく半分はバドミントンを頑張ろうという思いはあったと思います。 東京オリンピックでは銅メダル,全英オープン、デンマークオープンでも金メダルに輝く。 大震災を経験したことは大きいと思います。 バドミントンがある日常は決して当たり前ではない、だからこそ一瞬たりとも時間を無駄にしてはいけない、という考えの元、練習に打ち込んだんだと思います。 バドミントンで活躍することで福島の皆さんが元気に繋がれば嬉しいという気持ちも大きく頑張れた要因の一つだと思っています。 、福島への思いも彼の中には大きいと思います。 震災という大きな起点があって、彼を大きくさせたのかなあと思います。
健康でいることが勿論のこと、これから沢山の試練が続くと思いますが、限られた競技人生を楽しく笑顔で全うしてくれることが、私の望む一番の親孝行だと思います。 富岡に行かなかったら今がなかったかもしれません。