2022年1月4日火曜日

落合恵子・澤地久枝(作家)        ・もう一つの"夜のしおり"~この人に聞きたい

 落合恵子澤地久枝(作家)        ・もう一つの"夜のしおり"~この人に聞きたい

今日のゲストは澤地久枝さんです。  1930年生まれ、4歳の時に家族と一緒に満洲に移り住み終戦を迎えました。  およそ1年の難民生活の後、日本に引き上げ1947年東京の原宿でバラック生活を始めます。  その後出版社の勤務を経て、1972年に『妻たちの二・二六事件』で作家デビュー、その後菊池寛賞を受賞した『滄海(うみ)よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』『記録ミッドウェー海戦』をはじめ歴史に翻弄された普通の人々の人生に光を当てて来ました。2015年にはご自身の引き上げ体験を赤裸々に描いた、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』を出版、戦争の悲惨さが忘れられてゆく中で、平和の尊さを伝えています。

落合:去年から"夜のしおり"を担当させていただいています。  

澤地:今度誕生日が来ると92歳です。  振り返るとよく生きてきたなと思います。  80代は自分の無力感で嫌だなと思いました。  ここまでくると生きていることが仕事だと思っています。  人は一生懸命生きても、できる事はわずかだなといつも思っています。

落合:華やかに生きているわけではないのでダサくていいと言っていますが。

澤地: まさに私はそういう人生だと思います。  いつも一生懸命生きてきたという事で逃げちゃうんですね。  だから自分を許そうと思います。  名もない人を最初から書こうと思ったわけではなくて、私としては気になる人、歴史の上では名前も残っていないような人に心を惹かれました。 そういう人をいつの間にか探すようになっちゃいました。  

落合:余分な形容詞を使わないのが凄いですね。

澤地:私は書いていてどんどん削って行きますね。  でも文章が下手ね。 でもかれこれ50年物書きでやってこれたんだから、文章を書けない人も自信をお持ちになった方がいい。私は五味川純平さんんという人にいわば拾われたの。  会社をに勤めていて、夜の学校に行っていて、編集部に行って、いびられました。  生活上辞められませんでした。  そういう自分を振り返った時によく死ななかったと思います。   最後は体が悲鳴を上げて職場で失神して倒れました。   速達で退職届を出しました。   長女で下に妹、弟がいました。   父が51歳でした。   中央公論社には18歳で入りました。(昭和24年)   経理の事務員でした。  算盤が出来なくて朝早くいって先輩から教えてもらいました。  夜の大学に行くためにまずは夜の高校(旧制都立向丘高等女学校)に1年間行き早稲田大学第二文学部にて学びました。   

落合:本のなかに「私の原罪、自分自身の罪として、あの戦争の時代に全く無関係とはいえない。 そのことの責任は私は死ぬまで背負うつもりだ。・・・昭和の日本人だったという原罪を背負っていたいと思います。・・・。」と書いていますが。

澤地:空襲がどんなに凄まじいものなのか、日本全土ですから。  一面の焼け野原です。

落合:辛いことがあったりすると銀座の町を歩いてさやかな贅沢としてハンカチーフを買われた。

澤地:買った後なんか心が落ち着くんですね。  

落合:正月は?

澤地:満州を引き上げてきてからはまるっきり違います。   中国人へは砂糖とか米の配給がなくて、日本人と中国人との間には食べるもので凄い差別があることがわかりました。落合:原風景、差別があり、貧富の差があり、同じ人間だが上下があり、その時に体験されてきたんですね。

澤地:子供のころに見てしまって、感じたことは間違いではないですね。  

落合:きっとどこの社会でも同じような差別があると思いますが。  澤地さんは差別される側の痛みに対して黙っていられない、と書いてくださっていた。

澤地:私は変わりようがないと思っている。  私は私であり続ける事を大事にしようと思っています。 

落合:澤地さんの文章のなかで、「人は誰でも心の底に 悲しみをたたえた泉を持っている。  時にその泉は溢れそうになるけれど、人には告ぐべきことではない。(誰かに言うべきことではない)  ・・・告げたい思いは誰にもある。  それを察して優しい気持ちで相手に対するとき、異性間の愛情とは別の愛、いとおしみが生まれそうに思える。 鰯雲の乾いた心は似合わない。」と書いていますが。 

澤地:自分のことはわかっている様であるけれど、そうであるかどうかはちょっとわからないところは有る。  怖いところは有るかもしれないが、人に対しては優しくありたいと思っています。    私はいつも赤ちゃんや子供をというのはこんなに楽しいのかなあと、自分で感心するぐらい楽しい。  お父さんたちは世代的に見てゆくと変わったと思います。    15歳まで植民地にいたという事が体に染みついていて、今になるとしょっちゅう蘇ってきている。  こんなに子供たちが可愛いと思ってる私は何なんだろうと思うが、如何に自分が哀れな子供時代を送ったかという事の裏返しだと思います。   

落合:これからの社会はどんな社会、どんな世界であってほしいと思いますか。?

澤地:今生きている人たちが志みたいなものがごまかされないで、志が実を結んで、命が脅かされないようにという事を思っています。  それぞれの人がちゃんと生きられる世の中。    母が生きてる時には特に泣けなかった。  でもお風呂で泣けば判らないという事が判った。   お風呂で泣くという事は自分の人生の中でつかんだ結論ね。 

焼け跡の銭湯のお風呂は物凄く混んでいて、経血の跡が残っているのが見えたり、ひどい状況だったし、バラックにはのみがいっぱいいました。  今の若い人は知らなくて当たり前ですが、90歳以上はもっとすごい体験をしているので、もっと聞いた方がいいです。 でも齢を取った人たちは中々言わない。  しっかり言って行かなくてはいけないと思います。