2022年1月23日日曜日

豆塚エリ(詩人・出版社代表)      ・車いすの詩人「生きづらさ」に寄り添い続けて

(詩人・出版社代表)      ・車いすの詩人「生きづらさ」に寄り添い続けて

*都合によりここ4,5日 昼頃の投稿となります。(秋田 宏)

生きづらさを書く理由には豆塚エリさん自身の壮絶な経験があります。   高校生の時に自殺をはかり重度の障害者になり、首から下がほとんど感覚のないもののリハビリを経てかろうじて手を動かせるようになった豆塚さん、それでも温かさや冷たさを感ずることはできません。 豆塚さんが自ら命を断とうとした背景には日本人の父と韓国人の母を持つという出自や複雑な家庭環境がありました。  入院生活やリハビリを通じて生きる気力を取り戻して行ったという豆塚さん、現在は経験を詩やエッセーとして綴るほかメディアへの出演などを通じて、生きづらさを感じている人の力に成ろうと活動を続けています。   

最近になって「生きづらさ」という言葉が普及してきて、私が書き始めた頃はまだそんな言葉もなく、漠然とした将来に対する不安だったりだとか、死んでしまいたいとか、そういう気持ちを抱く人がいて、出発点は純粋に自分のそういう辛さとかをどう言葉にしていいのか、葛藤のなかで生まれてきたものを綴っていた。  飛び降りをして病院に入ってケアを受けていく中で生きづらさを客観視できるようになった。   自分と同じような子が今後出てきてほしくないという気持ちがまず一番にあって、10代の自殺率が上がってきていると聞いているので、「生きづらさ」を感じて居るひと、特に子供たちにに何か届けばいいなあと思って書いています。   

「生きづらさ」を感じたのは、小学生のころだったと思います。  両親の仲が余り良くなかった。   両親はどちらも再婚です。  私が3歳の時に再婚しました。  小学校に上がって妹もできました。(血は繋がっていない)    母は働きに出るようになって段々帰ってこなくなっちゃいました。   血の繋がっていない父は母に厭なことをいうし嫌いでした。  一緒にいたくない思いでした。    母は在日韓国人で言葉が判らない中で働いたり言葉を覚えたりしてきました。  文字は書けないし、しゃべるのも片言でした。子供ながらに母が可哀そうでした。  父からも守らなければいけないと感じていました。韓国人に対するヘイトは何となく快く思わなかったように感じてはいました。  それをしっかり意識し始めたのは中学、高校になって携帯でインターネットに接続できるようになってからです。  あからさまな言葉に多くで会うようになってからです。  日本国籍で日本で育っているが、血が混じっていることに対する、日本人ではないことに対する負い目みたいなものを自覚していきました。  

母も差別というものに対して、いろいろあったと思います。  日本人は薄情だとか言うんです、私は日本人なのに。  母は私が日本人であるという事に期待もするわけです。  期待にこたえたいという気持ちがありました。  或る意味嫉妬を感じていたのかもしれません。  大分県でも有数の進学校に合格、高校進学の前に両親は離婚、母と二人での生活が始まる。  二人に成ればよりよい生活ができるのではないかなあと考えました。   すべての原因を父親に押し付けたかったのかもしれません。   家に帰っても誰もいない、ほとんど一人暮らしの生活をしているような状況でした。   中学では料理もしていましたが、それもできなくなりました。  私も責められるようになり母との関係もどんどん悪くなっていきました。   家には居たくないように感じました。  自分にとっては生活そのものが煩わしいものでしかなかった。   夜中に家を飛び出したりもしましたが、結局居場所がないので家に帰るしかない。   誰かに気を留めてもらいたかった、鬱的状態になっていたと思います。 

高校2年生の12月に、急に朝起きれなくなりました。   2,3日続いて、朝、母が帰ってきました。  なんで学校に行かないんだと怒られて、喧嘩になって母が家を出て行ってしまいました。  本当に居場所がないなと感じて、あっ死ねばいいんだとその時に思って、その前にも漠然と死ねばいいんだとかという思いはありましたが、感覚が全然違っていました。   最後の時に母が「どうしたの」とか受け入れてくれたら、違ってたと思います。   アパートの3階のベランダに出て、これで生きていたら神様が「あなた生きなさいよ」と言ってくれているという事にしようと思って、半分賭けのような気持で、こわいという思いもあり、車が下にいなくなってから 30秒数えて落ちようと思って、数を数えて落ちました。

混濁していたというか、どこからが本当のことでどこまでが夢なのか、定かではありませんでした。   1回目覚めた時 、母が叫んでいて、部屋は暗かったようでした。  「あなたうちの子なんかじゃない。」と言っていました。  さすがに泣けてきて、ここまでしても私は否定されるんだなあと、思ってホロホロときちゃいました。   看護師さんから「大丈夫だから、寝てていいよ。」と言われて安心して又意識を失って・・・。   2年にわたるリハビリで、私は生まれ直しのように感じがして居て、・・・。  目覚めたら全く体が動かないんです。  最初はそれが苦痛で、悔しくて、悲しくて厭でしょうがなかった。 やってくれる人は迷惑かなと思っていたら厭そうではなかった。    生き生きと世話をしてくれて、こんな人たちもいるんだと初めて気が付きました。   しゃべれないのでお礼の気持ちで笑ったら、「笑顔が素敵だね。」と言われました。  そこから変わってゆく感じがしました。   立ったり歩いたりすることはできないと言われたときには、落ち込むこともありました。   少しづつ回復してゆくことに対して医師とか看護師さんが認めてくれて、満たされ度合いが大きかった。  今の自分を受け入れてくれたというのが、何よりも自分の中で回復できたと思っています。  

私が恩師だと思って居る人が詩人をされていて、その先生が入院間もないころ手紙をくださいました。  文芸部のOBでもあるその方が、OBの人たちに声を掛けて手紙を私宛にそれぞれ書いてくれたのを纏めて送ってくださいました。  「病室の窓は開いてますか。  心の窓は開いてますか。」・・・そういう文面が詩として綴られていました。  それが凄く心に残っていて、私という人間の存在を考えていてくれて、思っていたよりも自分は受け入れられていたのかもしれないとか、思いました。   指先が動くので、書いたりパソコンが出来るので、これは運命かもしれないと思って、お礼に詩集でもと思って、書き続けなければいけないなと、その時思いました。  

リハビリは一人ぼっちの作業で誰も判ってはくれない。   先生にもぶつけたこともありますが、「やらなくてもいいよ、だけど困るのは自分でしょ。」と言って突き放されました。  自分のためにやるもので誰かのためにやるものではないと思って、それに凄く感謝しています。 

*「かずらとふじ」? (リハビリ中につ擦った一編の詩) 

強く生きてゆく覚悟が描かれている。  

エッセー 「死にたい気持ちが消えるまで」  もう死にたいとは思わない。  それが一番大切なことで、それでいいのではないかと。  せめて自分の命を断とうとしない、思いとどまってほしい。   自分と向き合ってスッキリした感じはあります。  愛されていなかったんだなあという一面は有りますが、でも受け入れてくれていた人たちは確かにいましたし、今はそういう人たちが周りにいっぱいいると言えます。 今は凄く温かいものに囲まれていると再認識しています。   生きることそのものを愛せるように私もなって行かなければいけないし、みんなもそうなれたらちょっと生きやすくなるなるのかなあと思います。