平野早矢香(卓球女子団体銀メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】鬼の仮面を外して語る~卓球と私
去年の東京オリンピックでは混合ダブルスの金メダルをはじめ、4つのメダルを獲得した日本の卓球ですけれども、1月24日からは東京で全日本選手権が始まります。 全日本卓球の女子シングルスで3連覇を含む5回の優勝、2012年ロンドンオリンピックの女子団体では卓球競技として男女を通じて初のメダルとなる銀メダルを獲得した平野早矢香さんに伺います。 現役時代は卓球の鬼と言われてしぶとい試合ぶりを見せてくれた平野さんですが、2016年に現役を引退、現在は卓球競技の解説、スポーツコメンテーターとして活躍中です。
現役の頃は卓球一筋というような生活でしたが、引退後は全く違う第二の人生をスタートしたと思っています。 両親が卓球をしていた影響で趣味みたいな感じで始めました。(5歳)小学校1年生で全日本選手権のバンビの部(2年生以下)に参加。 中学・高校時代は、仙台育英学園秀光中学校・仙台育英学園高等学校に在学、高校1年生で全日本ジュニアで優勝。 その時の試合は今でも鮮明に覚えています。
卓球はトップスピン、バックスピンが基本的な回転で、そこにサイドスピンが入ってきますが、「つっつき」という技術はバックスピンのボールで長く送るものです。 2004年全日本選手権で18歳で優勝。(優勝候補としてのレベルではなかった。) 決勝は藤井寛子選手で11ゲーム11点先取で7ゲームマッチ(4ゲーム先取)でしたが、第6ゲーム 10-8で相手のマッチポイントからの逆転、最終ゲームも前半かなりリードされてからの逆転でした。
ミキハウスに入社して卓球のスタイルのチェンジをしなければけないという事で、新しいサーブを身に付けようという事で、巻き込みサーブと言って当時は主流ではなかったサーブの練習を始めました。 入社した当時から世界で活躍するために自分はどういった強化をするか、伸ばすべきことを、監督等と何度も話し合いをしました。 卓球以外の分野の人たちからも身体的な事、メンタル的な事とかをアドバイスしていただきました。 2008年 広州の世界選手権に出場し日本は3位になる。 その時に「鬼の平野」と言われました。 同年 北京オリンピックに出場し、個人シングルスは3回戦敗退、団体戦では3位決定戦で韓国に敗れメダルを逃す。 次のロンドンに対してどういう事をしなければいけないのか、いろいろ経験したうえで準備が出来たと思います。 負けた瞬間の写真を拡大してナショナルトレーニングセンターの卓球場のところに飾っていました。 ロンドンではこの悔しさを味合わない、自分たちがガッツポーズをするんだという事で強化練習に取り組みました。
2009年 全日本選手権5回目の優勝。 決勝の相手は王 輝選手(中国からの帰化選手)でカット(ディフェンス)の選手で中国代表としても世界選手権等で活躍していた選手でした。 それまで一度も勝ったことのない選手でしたし、スランプで迎えた全日本選手権でもありました。 30球ぐらいのラリーは何度もあったと思います。 最終ゲーム第7ゲームの前半 エッジボールが2回あり精神的にへこみました。 チェンジコートの時にスクリーンのビジョンを見た時に、2004年の決勝の逆転優勝のことを思い出して、このスコアーでも判らないなあと思って、粘ってゆく戦術の軸だったんですが、流れが悪いので思い切ってコースを変えて行こうと思いました。 フォアに送ったら今までにないような凡ミスをしました。 1-5から試合の流れがガラッと変わってそこから追い上げてきて、9-8とリードして最終的には11-9で勝つことが出来ました。 促進ルールが適用されましたが、なんとか対応できました。 全ラリー数が1076本 歴史に残る全日本選手権の試合でした。
2012年ロンドンオリンピックは福原愛さん石川佳純さんと共に団体戦のみに出場し、準決勝でシンガポールを下して男女通じて日本卓球として初めてのメダルを確定させる。 オーダーは決まっていて福原・石川ペアーで練習をしていましたが、試合前夜に村上監督から石川・平野ではどうかと言われて、吃驚しました。 今まで石川選手と組んだ経験と二人の戦術が決まれば何とか持っていけるかもしれないという気持ちはありました。 石川選手と相手のビデオを見てこう攻めようという意見が合い当日に臨みました。 結果は福原選手、石川選手がシングルスを取ってダブルスも取って、シンガポールを下しました。
一番は自分の卓球を相手に対してのびのびと堂々と発揮できるかどうかという事と、卓球は対戦競技なので相手の動き、相手の心理を読むというところが非常に重要な勝敗を左右する重要な部分で、自分の能力を伸ばすとともに相手を見る、研究するという事を一緒に高めて行くというところが重要になってきます。