吉田栄子(戦災孤児) ・私の家族はどこ? ~"空っぽの墓"に参り続けて~
太平洋戦争末期およそ1万5000人が犠牲となった大阪大空襲、吉田さんは両親を含む家族9人を亡くしました。 吉田さんは空襲で失った家族の遺骨を見つけられないまま今年86歳を迎えました。 今もなお家族の遺骨が納められていないお墓に参り続けています。 かつて吉田さんは今の大阪市難波で家族や叔父一家と共に11人で暮らしていました。 10歳の時に和歌山県にほど近い親戚の家に一人で疎開しましたが、1945年3月13日の大阪大空襲で職場にいた兄以外の家族9人を亡くしました。 空襲で家族のほとんどを亡くして人生が一変し、戦災孤児となった吉田さん、戦後75年吉田さんが歩んだ苦難の人生、そして家族の遺骨が判らないまま墓参りを続けてきた思いを聞きました。
親が訪ねてきてくれるのを待っていましたが、来ないので線路伝いに歩いて難波まで行きました。 周りは何もなくて蔵だけは建っていました。
自分の家まで着いたら、母の弟、兄とかが来ていました。
家族は居ないので小学校に避難していると思って避難所に一目散に行きました。
体育館には亡くなった方が男か女かわからないあられもない形のままの焼死体が置かれていました。
隣の家の人たちと共に逃げようとしているところを、隣の家の人が振り返ってみたら両側の家が崩れ落ちて私の両親たちの家族が見えなくなったと言うことをそこの避難先で聞きました。
兄は家の近くに勤めていて、空襲の夜には兄は出社していたため空襲は免れました。 家が燃えているのが見えていたそうです。
別の小学校にも私は見に行って校庭には遺体が並べられていました。 足元の靴の間から手編みの靴下を見たときに自分のと同じ靴下で間違いなく姉の遺体だと思いました。
疎開先に戻った後も兄は家族の行方を探し続けましたが、家族8人は同じ場所で亡くなったことが判りました。 6歳の弟を母がお腹に抱えてなくなった、父が一番上にかぶさってなくなっていたそうです。
母は7人産んでまして、私は女の子3人の末っ子で、凄く父は私をかわいがってくれました。
親戚のおじさんがこの子が大きくなるまでには凄く苦労するだろうなあというのが耳に入っていました。 これからどういうことが起こるのかは何も考えられなかった。
家族の遺骨は空襲直後の混乱でどこに引き取られてどうなったのか判りませんでした。
私は親戚を転々とする生活が始まります。 母の姉が引き取りに来てくれて4kmの道を叔母と共に歩いて叔母の家に行きました。
兄が養子に行くことになりましたが、叔母が私も連れて行けということになり私も兄の養子先に連れていかれることになりました。
そこの生活は物の無い戦後だし、向こうの方としてはうれしいことはないと思います。
学校には行かせてもらいながら、顔色を見ながらいろんなお手伝いを一生懸命しました。
実家を離れてから5か所目、14~17歳まで母方の叔父に引き取られ、人生最大の苦労する日々を送ることになりました。 中学校2年生の3学期の時で、叔父さんが母の弟で叔母さんとは他人で、子供さんも小さくて、私が預かってもらうということは大変迷惑だったと思いますが、そこの叔母さんがもの凄くきつかったです。
3人子供がいて、私が行ってから4人目を生んでその世話も全部私がやることになりました。
学校から一目散で帰ってきて、叔母さんとしてはただの働く女中さんということでした、中学卒業したら仕事をするようにと言われて、美容学校へ1年だけ行かせてもらいました。
逃げ出すところがないから逃げ出したいと思わなかった、日々の暮らしで精いっぱいで将来のことなんて何にも考えていなかったです。
警察の官舎に勤めていた人がいて叔母さんが無理やりその人と結婚させられました。(21歳)
離婚しようと思ったが、どうしようというということで5年ぐらいは子供は産もうとは思いませんでした。
26歳でお産も一人でして、2人目の時もだれも手伝いをしてくれる人もなく一人で産みました。
子供が小学校に入るようになった時には凄くうれしかった記憶があります。
美容師として独立してからは先祖への墓参りをするようになりましたが、家族の遺骨は行方が分からないままでした。 遺骨はないけれど私の行く場所はそこしかないんです。
50回忌で子供が一緒に行ってくれるようになりました。
大阪国際平和センターでは大阪大空襲で亡くなった人を追悼するモニュメントを作り犠牲となった人を刻印するという話を聞きました。 名前だけでも残しておきたいと手続きをしました。 名前を確認して息子も胸が詰まったと言っていました。
今年新たに豊中市の服部緑地に行く予定で、そこには空襲によって亡くなった2870人の遺骨が納められているといいます。 亡くなった家族の遺骨がそこにあるかもしれないという希望を持っています。
親が亡くなったことによって人生が全部変わってしまったことは、凄く悔いのある人生でした、一回しかない人生ですから。
遺骨が見つからなくても有ると思ってお墓参りしています、念ずれば通じると思ってお参りしています、それが唯一の私の心の拠り所ですよね。