佐藤哲雄(インパール作戦 元分隊長) ・【戦争・平和インタビュー】「100歳の今、伝えたい "生き抜く尊さ"」
佐藤さんは大正8年生まれで、現在100歳、新潟県の北部の村上市で暮らしています。
昭和19年3月に始まったインパール作戦は当時のビルマ国境近くの地域からインド北東部のインパール攻略を目的に展開された作戦です。 食料や弾薬が不足する中激しい戦闘が繰り広げられ最も過酷な戦争、最悪の作戦などと言われています。
佐藤さんはこの過酷な戦場を日本を出発する前に上官から生きて帰って来いという訓示を胸に秘めて生き抜きました。 佐藤さんは戦場から自身の行動を記録した書類を持ち帰ってきました。 この書類を手掛かりに、聞きました。
(方言もあり高齢でもあるので聞き取りずらく、正確さを欠くかもしれません)
インパール作戦は負け戦の延長戦でしたね、無茶な作戦だったと思います。
この紙が残っているから思い出されます。
書き出しが昭和15年4月10日、現役兵として歩兵第16連隊留守隊第8中隊に入営から始まっています。 あの当時は万歳と日の丸の旗に送られていったので、死ぬのが当たり前だと思っていたので、死ぬことはあんまり気にしてはいなかった。
昭和16年に16連隊から58連隊に転属するために新発田市を出発して新潟県の西の上越市高田に向かっています。 その時訓示は最初は立派に先輩の傷をつけないように死ねという感じでしたが、最後に死ぬばかりが国のためにならないから必ず帰ってきて国のために働けという最後の言葉でした。
負けるとは思わなかったが、この人は何を考えてこういう訓示したのかなあと不思議に思っていた。
ああいうことを言うには負けることを考えていたのかなあと最後まで腑に落ちなかった。
ビルマに行ってからあの人は先を見通していたのかなあと思いました。
昭和18年3月15日作戦のためにコダン出発、これがインパール作戦と言われている。
インドの北東部の攻略を目指したものの、物資の補給がままならないまま強行されて今では最悪の作戦とも言われています。
第31師団は連合国軍の補給の要所コヒマの攻略が目的でした。 部隊長として私は数十人の兵士を纏めていました。
小隊長が負傷してしまっていたので、私が引き連れていたが、最初から勝つ見込みがなかった。
川を渡るのに食料がないので牛やヤギも載せて船が満足に渡ればよかったが、満足には渡れないと思った。
食料としての牛やヤギは流されてしまって、不安でした。
3月19日、左ひざ関節に迫撃砲弾破片創を受ける。(怪我をする)
病院に行くまで2週間もかかり麻酔もなく手術をしました。
行くまでにマラリアにもかかってしまって40℃の熱が1週間かかりました。
戦友が面倒見てくれて熱も下がってきました。
生きて帰ってこいという訓示が頭の中にありました。
退院後コヒマに到着するが、相手は補給が整っていて日本の状況は悪化してゆき、ほどなく撤退が始まるが、多くの日本兵が病気や飢えで亡くなって、死体が多くあったことからその道は白骨街道と呼ばれています。
死にそうになっている戦友がいても手助けすることもできない、体力的に手伝っていると自分も駄目になってしまうような状況でした。
病気で死んでしまう人が多かった。
ヒョウとかハゲタカに襲われているのも見ました、みるみる白骨化していきます。
食べ物はなかなか手に入らず、バナナ、葉っぱを煮てみて食べられそうならばそういったものを食べていました。
昭和22年新潟の実家に戻ってこられました。
戦争に負けてしまっているので、よく帰ってきたというような歓迎される事は言われなかった。
帰ってこないでビルマで逃亡したほうがよかったのかなあと思ったこともありましたが、段々山の仕事も覚えてきて信用してもらって、グループを作って真面目に仕事をして、思いが変わってきました。
去年インドにできたインパール平和資料館に戦地で使っていた双眼鏡を寄贈しました。
戦争は絶対してはならないと思います、死にに行くようなものだから。
戦争なんて人を殺さないと自分が殺されるのだから、いいに拘わらず悪いに拘わらずこういうことをしてはいけない。
人間であって人間ではなくなる。