高山良二(元陸上自衛隊員) ・地雷原を農地に変えた日本人
高山さんは73歳、1992~93年にかけてPKO国連平和維持活動でカンボジアに派遣されました。 自衛隊を定年退職してからは愛媛県の自宅とカンボジアを行き来して、内戦で埋められた数百万もの地雷を地元住民とともに除去し続けています。 第二の人生を異国の戦後復興に捧げる高山さんに伺いました。
PKOで行った時にはまだ内戦がくすぶっていました。 停戦合意が出来たからと言ってぴたっと弾が飛ばなくなるということではないです。
戦争がなくなって今カンボジアの人たちは100%と言っていいほど、ポルポト政権とか政府軍とかは過去の話なので、これからのカンボジアを我々は発展させてゆきたいと言っています。
全国で1年間で地雷の被害を受ける人が600~800人と言われていましたが、現在は200人ぐらいになっています。
地雷原として指定されていないところのほうが沢山埋まっていると私は思います、現に事故が起きているところは地雷原と指定されていないところが多く起きていて、悲惨な状態です。
1992年10月から93年4月にかけて45歳の時にカンボジアに行くように命令がありましたが、当時は行ったら足が飛ぶか、死ぬかというような報道でしたので、一晩はいろいろ考えましたが、行かなければいけない、行って成功させなければいけないと思いました。
第二次先遣隊として84名を連れてゆく責任者としていきました。
乾期のキャンプの門のまえの田んぼの中で10歳の男の子が牛を連れてきて杭を打とうとして金づち代わりに使ったのが不発弾でガツンとやったら爆発して即死してしまいましたが、その光景を見てしまいました。
子供たちは地雷や不発弾に対する正しい知識がなかったです。
72A型対人地雷、手のひらに乗るぐらいの平たい円柱形で、側がプラスチックで中の撃針部分だけが鉄なので金属探知機に引っかかるわけです。
5,6㎏の圧力がかかると発火して、足で踏んだ場合は足首あたりまで損傷します。
1970年にカンボジアでクーデターが起き、ポルポト率いるクメール・ルージュへと政権が移り20年以上内戦状態になり、その間に埋められた地雷は400万~600万個と言われている。
敵の前進を遅らせたり、土地を使わさないようにしたり、自分たちを守るために地雷は使われていました。 軍人及びその家族によって埋められました。
私は施設科部隊で橋を掛けたり道路を修理したりする任務でしたが、地雷の処理の訓練はしていました。
命令で行って命令で定められたことしかできなくて、融通性のある任務付与ではなかった腹立たしさはありましたので、フリーになったら戻ってきて気が済むまでやるんだと強烈に思いました。 PKOで行った事で人生観、価値観がひっくり返りました。
2002年55歳で自衛隊を定年退官して、すぐにカンボジアに行って地雷除去の団体に加わりました。 行ったところは内戦の最後の激戦地でした。
二人一組で1.5mの幅の奥行40cmの草や木をのけます、その後金属探知機を動かします。
地雷を作動させないように土を少しづつのけていって、金属源が何か調べて、地雷だったらそこに印をつけて一旦そこにおいて置き、ライセンスを持った隊員が来て誘爆させます。
気温が40度以上になることもあるのできついです、いろいろ装備もつけてやるので大変ですし、自分もいつか怪我をしたり死ぬかもしれないという怖さがあります。
一日、二日では成果は見えないが、5年、10年と経つとコメや大豆を干したりするブルーシートが確実に増えてゆくんです。
住民参加型地雷処理活動は私がカンボジアの処理組織の長官に提言した内容で、啓蒙、啓発活動、危険回避を村人でできるということです。
2007年1月19日朝に地雷原のなかで大きな爆発が起きて7名がなくなってしまいましたが、帰国する時にプノンペンの本部の事務所に立ち寄ったときにそのことを知りました。
本部から現場まで450kmありましたが、急遽夜中でしたが引き戻りました。
対戦車地雷が8個ほど集団で埋められていて、その上に対人地雷が置かれていたものと思います。
7人が処理しようとしていたら、敏感な対人地雷に触れて誘爆して、対戦車地雷が爆発してしまったようです。 男性が4名、女性が3名で年齢は若い人が22歳、小隊長が45歳で亡くなった男性一人と女性一人は婚約していました。
7名の遺品は全部拾い上げて、火を焚いて荼毘に伏して、小さな骨を遺族にお返ししました。 一度は責任を取って死にたいと思いました。
これからもこの活動を続けて恥を忍んででも生きて村の楽な生活できるようにという思いでした。
安全な畑にしないといけないということで、みんな一緒にやることによって村の復興といったことが芽生えてきたんだと思います。
達成感としては、山の頂上にアタックする裾野の一歩ぐらいだと思います。
地雷原だった場所で芋を栽培して焼酎に加工して販売までしています。 村人にお金が回っていくようにしないといけないと思いました。
戦後処理の場所から平和のメッセージを送る酒という風なキャッチフレーズで言っていますが、戦争をして殺し合いをするよりは酒を飲んで楽しい生活ができる、どっちを選びますかということです。
目指す目標としては、私がそこには要らなくなるということだと思っています。
ひとたび引き金を引くと子供、孫の代まで続いていくので、それでも引き金を引く選択をするのですかと、世界の人たちに言い続けたいということと、引き金を引く選択は絶対してはいけないと思います、平和を現場から訴えたい。