2020年8月6日木曜日

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に
沖縄の方言で大城さんの故郷の南風原町を「せいばる」というそうで命薬と書いて「ぬちぐすい」と読むそうです。
大城さんは琉球舞踊家として国内外で沖縄の魅力を伝える傍ら、30数年前から南風原町で
わらべ歌の普及活動に取り組んできました。
おじい、おばあから受け継いだわらべ歌は沖縄の平和の象徴であり、命の薬(ぬちぐすい)だといいます。
平和を願い歌い続ける大城さんに伺いました。(電話インタビュー)

*ちょんちょん歌 歌:大城鶴子

現在81歳で、9月に82歳になります。
幼稚園、小学校に行ってわらべ歌を教えたり、おもな仕事は琉球舞踊の教師をやっています。
南風原町は沖縄の一番南にあり、唯一海が見えないところで、部隊の豪があって負の遺産として保存し、それを通して活動しています。
6歳の時に太平洋戦争末期に、沖縄の学童を疎開することになり、熊本の八代に行きました。
対馬丸という船に乗ったんですが、那覇で浦丸という貨物船に乗り換えさせられました。
対馬丸はアメリカ海軍の潜水艦に攻撃を受けて1400名あまりいた人たちは沈没して亡くなりました。
乗り換えたおかげで今生きています。
長崎に落ちた原爆の原子雲を見ました。
20歳の時に又長崎の音楽大学に沖縄から留学しました。
高校の時に近くに教会があり美しい音楽がいつも流れてきてそれに気を惹かれて訪ねました。

小さい時から踊りはさせられていました。
卒業後中学の音楽の先生をしました。
ほかの音楽の先生は沖縄の歌などは教えませんでしたが、私は沖縄の踊り、歌も授業に取り入れていました。
私は学校を辞めて東京に行きました。
夫になる人は武蔵野美術大学にいましたが、その後結婚しました。
沖縄の復帰問題に参加して活動しました。
沖縄が日本に復帰して、沖縄南風原に戻ってきました。
沖縄の思いを伝える活動をしてきました。
沖縄は変わらないです、基地の問題とか。
南風原も変貌してきて、昔の南風原もなくなってしまうと思って、南風原音頭を作ることにしました。
音頭を自分たちで作ろうと言うことで、村々を全部回りました。
公民館にお年寄りをお呼びして歌ってもらったり、話をしてもらって、録画して音符にもして一冊の本ができました。
わらべ歌などどんどん湧き出てきました。
色々集めた中からそれを材料にして音頭が生まれました。

*南風原音頭 歌:大城鶴子

南風原音頭ができてから30年以上たっています。
わらべ歌楽譜集を作りました。
沖縄の言葉は忘れられたり、若者からは敬遠されることもあります。
それで本を作って子供たちに歌ってもらえるようにということで活動しました。
演奏できるように楽譜もついています。
今度はCDにして各家庭全員に配ろうと思っています。
琉球舞踊、歌、三線、わらべ歌と私には一つになっていると思います。
命薬(ぬちぐすい) 命(ぬち)に響いて自分の血となり肉になるんでしょうね。
歌が薬になるんで頑張って広めたいです。
姉がハワイに嫁いでいって、姉たちは活動を始めています。
その流れでハワイにはよく行って一緒に取り組んでいます。

*子守歌 歌:大城鶴子