木本孝(旧樺太 真岡郵便局電話交換手) ・【戦争・平和インタビュー】「戦中の集団自決"乙女たち"の思い いま語らん」
1945年8月20日、太平洋戦争の終結を告げる玉音放送から5日後、旧樺太、現在のサハリンで電話交換所として働いていた10代~20代の女性9人が青酸カリを飲んで集団自決しました、終戦の混乱のなか、侵攻してきた当時のソビエト軍から自分たちの純潔を守るための最後の抵抗でした。 亡くなった電話交換手は9人の乙女として語り継がれ、多くの本や映画のテーマにもなっています。 乙女たちの同僚だった女性が今も北海道千歳市に暮らしています、木本孝さん(92歳)これまで自分の体験についておおくを語ってきませんでしたが、戦後75年の今年、乙女たちの記憶を後世に残したいと思い口を開きました。
小樽市にうまれ、2歳の時に樺太の真岡という街に引っ越しました。 真岡は軍と山と二つしかなくて、背中には山があり前には海がある不凍港でした。
ニシン、マスなどが多く獲れるところでした。 船の中にニシンが零れ落ちるぐらい湾の中に入ってきます。 街は栄えてきました、遊郭、バーができて夜になるとキラキラでした。
電話交換手として働いていました。 街には憲兵隊、陸軍の兵隊の観測所もありました。
仕事に関して厳しく躾けられました。 学校で決めて電話交換手になります。
電話交換手は憧れの仕事でした。50名以上いました。10代後半から20代後半が多かったです。
昭和20年8月の終戦の直前にソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄して、真岡を含む樺太にも攻め込んできました。
電話交換室のなかに有線放送があり、ソ連の兵隊が国境線のシスカを乗り越えて南方に向かって進んでいるということを知りました。 心配でした。
終戦になって引き上げ班と残る班に分けることになり、どちらかを選びなさいと言われました。
私は残りたかったが一人っ子なので引き上げることに決めました。
8月20日、7時40分ぐらいに表のほうから、ソビエトの軍艦が入ったと叫んだ男の人がいました。
崖のそばまで行ったら海一面真っ黒い軍艦が何隻も止まっていて、機銃掃射がありました。
防空壕に入いろうと両親と一緒に防空壕に入ってじっとしていましたが、蓋を閉めたがトントンと音がして剥がされて、そこにはソ連の兵隊がいました。
3人で両手を挙げて拝んでいたら兵隊は行ってしまい、私たちは山に向かいました。
中途の空き家で何人もの人隊と一緒に一休みしていたら、兵隊が来て出ろと言われたが、だれも出なかったが、ある女の人が出て行って助けてほしいと言ったら、銃で撃たれてしまいました。
又出なさいと言われて、一人出ると又銃で撃たれてしまいました。
そうこうしているうちにジープがきて違う兵隊(海軍)が来て、自分たちの管轄なので行けということでその兵隊たち(陸軍)は引き上げていきましたので、助かったと思って自分の家に帰れました。
郵便局では後で聞いたんですが、ソ連の兵隊が攻めてくるので、薬を飲んで殉職しました。
友達がそのことを教えてくれました。(青酸カリを持っていたことは知っていました)
青酸カリはそれぞれの入手経路から手に入れました。
最初お守り程度に思っていましたが、犯されるの嫌で身を守りたいと思って、その前に飲みたいと思ったというような事でした。
穢されたり変な殺され方をするよりも職場を守って逝きたいという一心だったと思います。
教育をされていたし、職場を守るのが第一で死ぬなんて二も三も後です。
考えてみたら軍隊と同じような感じでした。
その後すぐ男の人が来てリヤカーでご遺体を真岡の一番大きい病院の裏に穴を掘って仮埋めしました。
落ち着いてから家族などが見えて掘り出して火葬しました。
そのなかには仲のいい友達がいました。
今でも写真を出してみています。 いつも頭から離れませんが、話したくはないんです、それを本当に判ってもらえなかったら私は粗末にできないんです。
本当に判ってもらえるかどうかということは当時の殉職した人たちの気持ちです、真剣に聞いてくれる人には話しますが、そうでない人には話したくありません、家族、子供にも話してはいません。
教育もそうなっていたので誰でもあの場面にぶつかっったら飲むんじゃないですか。
それぞれ夢があったと思いますが、残念です。
戦争って恐ろしいですよね。
戦争のない国になりたいなと思っています、そういうことを皆さんに判ってもらいたいです。