田淵幸一(野球評論家)・【スポーツ明日への伝言】ONを止めたホームランアーティスト
東京六大学野球の長嶋茂雄さんらが持っていた本塁打記録8本を塗り替え、王貞治さんの 連続ホームラン王の記録を13年でストップさせた元プロ野球選手の田渕幸一さん、今年1月に野球殿堂入りを果たしました。 新型コロナウイルスの感染拡大によって延期されていた表彰式が昨夜東京都内のホテルで行われました。
小学校4年生ぐらいから野球を始めました。 家の前が学習院で10人ぐらい集まって、下手な子が見張りをやって門番が来たら逃げろというようなやり方で野球をやっていました。
甲子園に出れるような学校に入りたいと思って、たまたま近所に法政一高の先輩が行っていまして、来いということで法政大学第一高校に入りましたが、120人ぐらいの部員がいました。
声を出すのみで硬球に触れなくて、どうしたら触れるのかなあと思ったのが、バッティングキャッチャーでした、それがキャッチャーの始まりでした。
監督の松永 怜一さんが手首も強そうだから明日からバッティングしてみろいうことでレギュラー的なものになりました。 松永さんから見出してもらいました。
高校3年の時に松永さんが堀越に行ってしまって、大学の野球部に入ったときに松永さんが法政大学の監督になって、大体7年間松永野球を学んでいるわけです。
松永さんは厳しく怖かったです。
1年の時に優勝のかかった慶応戦に起死回生の同点ホームランを打ったのが第一号でした。
延長で勝って次の試合で勝って初めての優勝でした。
1年後輩の山中ピッチャーは48勝という記録でこれは破れないと思います。
ホームラン22本目はあまり記憶がないです。
昭和43年ドラフトがあり、電話があり阪神タイガースとのことでした。 ドラフト前には川上さんと会っていて待ってるよと言われていて巨人に入れるものと思っていましたが。
最初の一打席が江夏の代打で初めて代打で出ましたが、投手は平松でストレート3球で一回も振れず三振の屈辱で、早くてバットが出ていかなくて、構えるときに手首を耳の位置までだったのを胸のマークまで手首を下げて、次の日に2本ホームランを打ちました。
王さんのバッティングで足を離しているのを見て自分でもやってみようと思ってやってみたら飛ぶようになりました。
長嶋さんがバッターボックスに入るとものすごく深呼吸するんで、オールスター戦の時に聞いてみたら、息を臍の下まで吸って、ボールが来たら吐くんだと、すると力が抜けていいんだといわれて、それを真似したらボールが飛ぶようになりました。
江夏は記録の時には王さん、長嶋さんとしか三振取らなかったですね、7,8,9番と気合いの入れ方が違うんです。
昭和50年43本でホームランタイトルを取りましたが、その時に王さんは内転筋か何か痛めていました。
474本打ちましたが、怪我さえなければ600本ぐらいは打っていたのではないかと思います。
昭和53年のオフに突如トレードという話が深夜にありました。
夜中に呼ぶような球団はもういいと腹はくくっていました。
西武に行くことになり西武の監督が根本さんで法政の先輩でした。 その後広岡さんが監督で厳しい練習をしました。
玄米食べさせられたり、食事の時にはビールを飲んではいけないとか、健康管理を厳しくやられました。
最初平岡さんの就任の挨拶の時にはみんなぼろくそに言われて、燃えさすためにこき下ろしたんです。
広岡さんは松永さんと似ています。
私は昭和59年を最後にユニホームを脱ぎます。
怪我はいろいろなところを毎年のようにやっていました。
星野との本当の出会いは阪神のユニホームを一緒に来た時からですね。 2002年のオフに中日を辞めて、タッグを組んで2003年に胴上げした時にマウンドで抱き合いました、それから親友としての付き合いが始まりました。
星野、山本といういい友達に恵まれました。
2018年1月4日マネージャーから星野が逝ってしまったという連絡があり号泣しました。