2019年10月7日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
ほむほむ賞 「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」
(ゾンビーナさん) (正しい文字ではないかもしれません。)
セミが背景にいて自分と一緒にさよならを聞いてしまう不思議な力が宿ていると思いました。

短歌を始めたばっかりの頃に読んでいた、初めに手に取った歌集、歌人の作品て、塚本邦雄さんと寺山修司さんでした。
岡井隆さんを加えた3人が前衛短歌の三羽烏と言われて、1960年代に活躍されていました。
憧れて読んでいた歌を紹介したいと思います。 

塚本邦雄、1920年滋賀県生まれ、高校卒業後商社に勤め兄の影響で短歌を作るようになる。
戦後になって歌人の前川 佐美雄に師事、一緒に同人誌を始めた杉原一司が早くに亡くなり、追悼して書いたのが第一歌集『水葬物語』1951年出版、絶賛されて本格的に歌人スタートする。
1960年代に前衛短歌運動の中心となり1985年に自らの短歌結社『玲瓏』を設立。
1990年からは近畿大学の教授となり2005年に亡くなりました。
短歌は普通古風で和風だが、彼のはモダンな世界。
当時の最先端が塚本さんでした。
絵画映像、音楽、俳句とか他ジャンルからの摂取が強かった方です。
我々にとってはなじみやすい感じがしました。
当時はとても自分ではできるとは思わなかった。(大学時代)

「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄
とても短歌とは思えなかった、求人広告の文体だった。
ある種のラブレターのようになっている、志をともにする同士を求めるようなイメージだと思う。
「桃色の踵」が面白い。
これが短歌だといわれたときは驚きでした。

「天正十年六月二日けぶれるは信長が薔薇色のくるぶし」 塚本邦雄
本能寺の変 火を放たれて炎の中で戦っているイメージだと思う。
信長の足元 低いアングル、映画とかが開発されて以降のアングルだと思う。
通常のリアリズムではない、これもびっくりしました。

「愛は生くるかぎりの罰と夕映えの我のふとももまで罌粟の丈」 塚本邦雄
愛は我々が生きている限りの宿命的な罰という様なとらえ方で、夕映えのケシ畑の中に一人で自分が立っている。
夕映えも赤く、ケシの花も赤だと思う。
ケシの花も危険なイメージがあり、自分の運命や生きることの燃えるような感覚、愛は我々が与えられた罰なんだといわれたときに裏返されたロマンのようなものがある。
許されない愛、罰をあたえられるような愛の方がより盛り上がることがある。

寺山修司、1935年青森県生まれ。
中学生のころから俳句、短歌、詩を作り始め早稲田大学に入学してからは熱心に短歌に取り組むようになりました。
短歌研究の編集長だった中井英夫に絶賛されます。
その後病気になり長期入院して大学は中退するが、ラジオドラマ、戯曲、評論などの執筆を始め1967年に横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。
1983年 47歳で亡くなりました。
「売りに行く柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野行くとき」 寺山修司
演劇的ですかね。
ジャンルを駆け抜けていったときにイメージは共通なものを彼は持っている。
初期が短歌だった。
時計が鳴ることによってより孤独な感じが伝わってくる。

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」 寺山修司
リアリズム的ではない、演劇的。
寺山の我はディレクターの位置、舞台の下にいて指示を出していて、舞台には少女役の少女と、我役の若者で麦藁帽を寺山には分っている。
脚本を書いているので少女は海を知らないという事も判っている。
神様の視点で、脚本家、監督の視点で作られていると後からわかってきた。

「無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として」 寺山修司
無名のまま夭折してしまったら、その星のなかにまぎれてしまう、という。
或る意味この言葉の使い方もなんか残酷なみずみずしさがある。
寺山は無名で死ぬことには耐えられなかったと思う。
寺山の不安というのか、この歌には出ていると思う。
残酷な美学という様なものを塚本邦雄、寺山修司の二人には共通しているような気がします。

塚本邦雄、寺山修司とか最初にあこがれたものの刷り込みって消え無くて、影響されます。
私という一人称の可能性を拡大したもうちょっと実際に体験しないことを書いてもいいとか、フィクションの魅力があってもいいとか、言葉のレベルでもっと自由に作っていいみたいな、そういうことをためらわずにやってもいいという感覚、革命幻想の時代だから。そして戦争の傷跡がこの二人にあり、それを判らないまま、勝手に思い込んでしまっていたことがあります。