2019年10月27日日曜日

田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
昭和26年愛媛県西条市うまれ、68歳。
子どものころから水泳が得意で中学の時に、対岸の広島県三原市へ水泳留学します。
尾道高校に進学、高校2年生17歳の時にメキシコオリンピック日本代表に選ばれました。
次のミュンへンのオリンピックの時が広島修道大学3年生、21歳。
広島ドルフィンクラブに所属し平泳ぎ100mで金メダル、200mで銅メダルを獲得しました。
オリンピックはメキシコ、ミュンへン、モントリオールと3回連続出場25歳のわあkさで現役を引退しました。
独特のピッチ泳法で日本記録や世界記録を更新し続けた当時日本水泳界のスターでした。
引退後は唯一の国立体育大学である鹿児島県の鹿屋体育大学で35年間の教員生活を送られ現在は福島県いわき市の医療創生大学の副学長を務めています。

中学2年生の時に日本選手権に出ていますが、女子の一番早い人には記録的に負けてしまっていました。
東京オリンピックのためにできた代々木オリンピックプールの初めてのレースでした。
1968年メキシコ大会では高校2年生でした。
鶴峯治選手とともに選ばれました。
男子100mの予選 1分9秒8トップで通過。
準決勝の同じ組には世界記録保持者のソビエトのパンキン、アルゼンチンのポレリという選手がいましたが、1分7秒1という驚異的世界新記録で1位でゴール。
しかし泳法違反という事でタイムは取り消しとなり、失格で決勝へは進めなかった。
各コースの審判は自分の選手しか見なくて公平さはなく、アメリカの審判だったが抗議をすればよかったが、文書で30分以内に抗議をすればよかったがそれをしなかった。
私の泳法は水中から足首が上に出るんですが、ドルフィンキックのように見えてしまったようだった。
実際にはそれがいいとも悪いとも規定には書いてはいなかった。
200mでは準決勝で敗れてしまいました。

ミュンへン大会はスピッツ選手が7個の金メダルを獲得するなど世界新記録に沸く大会でした。
当時世界記録は1分5秒7だったが、それを1秒ぐらい上回っていたので、金メダルを取るんだと宣言していました。
泳法については問題ないと思っていました。
予選では1分6秒1の好タイムで準決勝では1分5秒1驚異的世界新記録を出し トップで決勝に向かう。
100m平泳ぎの決勝が行われえる。
50mのターンでアメリカのブルース30秒7田口は1mぐらい離される。
60mを過ぎてもブルース、ヘンケンが身体半分リード、75mで田口はピッチが上がってきて80mで並んで追い抜き、ラストスパート1分4秒94世界新記録逆転して優勝する。
前半の入りあたを細かく設定するとイーブンペースで行くのが一番良かった。
予選、準決勝では先行逃げ切り型だったが、決勝だけは前半イーブンペースで行きました。
後半はピッチを上げて決勝は作戦通りとなりました。

200mではアメリカのヘンケンが50m過ぎたころから独泳となり、後半追い上げるが及ばずイギリスのウイルキー選手にもいタッチの差で抜かれて、2分23秒7(日本新記録)で3位となる。
泳法違反だと言われたらすぐに抗議できるように英文を用意していました。
1976年モントリオールオリンピック、100mの予選。
ヘンケンと同じ組で泳ぎ1分4秒65(日本新記録)2位だった。
準決勝では2度のフライイングを重ねて思うような泳ぎができず、1分5秒69で全体では12位となり決勝には進めなかった。
一旦金メダルを取り、目的を達して私はさらにという様な気持ちにはならなかった。
社会に出ていくためには勉強もしなくてはいけないと思って早く引退させてほしいと言っていました。
モントリオールの準決勝敗退2日後に記者会見を開いて現役引退を表明しました。(25歳)
頂点に立つと天皇陛下から声をかけていただいたり、総理大臣、著名な方からインタビューみたいな形になり、講演とかデモストレーションをしたりいろんなことが起きた金メダルでした。

愛媛は人工的なため池がありそこで泳いでいました。
透明度が高くて水草をよけながら鯉を追いかけていました。
中学2年の時に広島の三原三中に留学しました。
高校では尾道高校に行って2年生でメキシコオリンピックの代表になりました。
高校では温水プールを作ってほしいという事でオリンピック選手が出ました。
アメリカへ行きたいと思っていましたが、世界一の指導者のもとでやりたいという事でそういったら、流出させまいと広島県水泳連盟の関係者が地元フジタ工業の藤田正明、藤田一暁に協力を要請、関係者の熱意により広島市に「フジタドルフィンクラブ」が設立されることになりました。
水泳王国を復活させようというプランでした。
ピッチ泳法、足の引付は抵抗が多くて、足の方を水上すれすれに浮いて徹底的に腕を鍛えるわけです。
足の裏でけりなさいという事で足をできるだけ上げると腿の抵抗が少なくなり、腕でかけばいいわけです。
手で連続にやるとばてるので、ペース配分を考えて、水をたくさんキャッチできる腕を作って回転を上げるわけです。
手首も強くしなければいけない。
足の動きについては事前に審判長の確認をとって大丈夫という了解を得ました。

水泳はまだまだ記録が伸びるので人間の可能性を追求するのに水泳ほどいいものはないと思いました。
アメリカへの研修に第一号として2年間行きまして、戻ってきて国立大学の水泳の強化に招聘していただきました。
10億円を超えるを出してもらい実験プールを作って、研究費もふんだんに出していただきその中で柴田 亜衣が育ったわけです。
(2004年のアテネオリンピックの女子800m自由形の金メダルの選手)
5つの壁。
①基本をつくるのは難しい。
②継続が難しい。
③故障など限界への挑戦。
④不安をつくらないこと。 
⑤スポーツは運が伴う。

25年間書き込めるカレンダーを壁に貼って、ここで就職して、ここで結婚して、ここで引退とか書いていました。
書いておくと無駄が無くなります。
スポーツは継続なんで、流れている川を上っていくのとおんなじでちょっとでも手を抜くと戻ってくるんです。
行くところまでいかないとだめです。
技を習得した人は次の人に伝承できる場所を確保してほしいというものはあります。
2020には金メダルを宇靴か取ってほしいと思いますし、結構取れると思います。