八島信雄(山形市立図書館 元館長) ・死ぬまでおれは筆をとめない
夫がいないだけで家に石を投げ込まれ生きた心地がしなかった、子供と心中しようと従お
うしても死にきれなかった。
戦争で夫を亡くした女性たちの手記です。
この手記を30年に渡り執筆編集してきたのが八島信雄さん89歳です。
自ら戦争を体験し生き残ったものの責務を果たそうと活動を続けてきました。
八島さんは戦時中どんな体験をしたのか、そして遺族女性の手記から何を感じたのか、うかがいました。
昭和18年 旧制中学に入学した年、国に協力するという鮮明な学校で、教室での勉強はしていません。
校長先生は「諸君をこの学校は卒業させるつもりはない、諸君は軍部の学校(予科練)に進んで、天皇陛下のために死んでください」と我々にはっきりと訓示されました。
鮮明に覚えています。
その通りだと思って軍の学校に進みました。
無理して働いていて体の具合が悪くなり病院に連れていかれ、肺結核だという事でした。
帰宅を命ぜられ療養生活をして、終戦を迎えました。
8月15日に重大放送があるという事で近所の方と一緒に聞きました。
天皇陛下の言葉はよく聞こえませんでした。
これからは日本はアメリカを迎える非常事態になり、今後ともアメリカ軍と戦うように、そうおっしゃたと大人たちはなぜかそう受け止めました。
日本は負けたと言ったら、大人たちは日本は負けるはずがないと言って、お前は非国民だといわれました。
療養生活をしている間、学校の先輩、同期生たちは戦場に赴き多く亡くなっています。
私は生き残り申し訳ありませんでしたという気持ちはずーっと持っています。
私は市の職員として厚生課に勤めたときに遺族会関係の仕事もあり、その内容の話を聞いたりしていました。
遺族会の40年のまとめを本にして出したいという話を受けました。
「遥かなる足跡」というタイトルで世の中に出るようになりました。
戦没者の父母、兄弟、子ども、妻に文章を書いてくれという事で本が出来上がりました。
そのなかで「妻編」というものが出ましたが、私が担当しました。
戦争体験した私としては戦争は絶対にしてはいけないという思いがありました。
手記の一つ
「昭和19年の秋、私は村の国民学校に勤めていました。
一粒のお米も無駄にできないとき、全校を上げて落穂ひろいをしていました。・・・
夫の戦死の公報が入りました。 夫はチェコ軍の銃によって敵前300mのところで亡くなりました。 その知らせを聞いてから300mという距離が頭から離れなくなりました。
・・・300mを目測するのが癖になりました。 悲しいことですが習性のようになったのでした。」
国民全体が厳しい生活状況だったが戦没者の妻たちはそれに輪をかけて苦労したと思います。
3度3度の食事を取れるような環境ではなかったと思います。
昭和25,6年までの生活は食うや食わずだったと思います。
戦没者の妻は子どもを夫の形見として育てなければいけないという事で非常に責任が大きかったと思います。
配給制度だけでは生きていけないので身を切るような思いで生活してきました。
手記の一つ
「望みを失った私は或るとき死ぬことを考えた。 線路に子どもの手を引いて行った。
ここに居ようねと線路に子どもを引きずり上げた。
そうすると汽車がばく進してきた。 レールが振動した。
私は夢中で子どもの手を引いて坂を降りていた。
私は茫然として黒い汽車を見送っていた。
死ねなかった。」
子どもを育てなくてはならない、子どもがいたから生きたんだと思います。
生き残った人は死んだ人と同じようなそれ以上の苦しみを味わっていると思います。
それは死んだ者から受け継いだ意志でもあると思います。
編集者の立場で彼女らに接してきたと思います。
知ってもらうために書いてもらわなければ駄目だ、そういう立場に変わってきたと思います。
辛いですが、書いてもらって後々までも残す必要があると思いました。
子どもにも、孫にも知ってもらう必要がある。
それから世間に広がって世間にも知ってもらう。
30年やってきてつらかったことはないです。
自分に課せられた責務だと思っていますので。
日本は平和な時代だと思っているが、要職にある人がポロリと領土を取り戻すには戦争をして、みたいなことを言って国会議員が言うと影響が大きいと思う。
素晴らしい日本国憲法があるにもかかわらずですよ、非常に危険だと思います。
戦争放棄の憲法を読んだときは感激しました。
この本は若い人に読んでいただきたい。
何が何でも話し合いで決めてもらいたい、なにがなんでも戦争は駄目なんだと、武器を取っては駄目なんだと、平和第一なんだと年配者として言いたい。