2019年10月22日火曜日

那須正幹(作家)             ・子どもの好奇心にこたえる

那須正幹(作家)             ・子どもの好奇心にこたえる
*明日への言葉 ブログ開始してからお陰様で累計アクセス数が150万件(1500836)を越えました。

ズッコケ三人組」シリーズを始め多くの作品を世に送り出してきました。
特に「ズッコケ三人組」シリーズは1978年から2004年末の完結まで全50巻累計2500万部、戦後の児童文学史上最大のベストセラーと言われています。
那須さんは故郷の広島で3歳の時に被爆しました。
島根農科大学に進学して、昆虫学を学んだ後、東京で就職、その後故郷に戻り実家の書道教室を手伝いながら、児童文学を書き始め、エンターテイメントという新しいジャンルを切り開いてきました。
自らの体験を含め綿密な取材を重ね初めてノンフィクションに挑戦した「折り鶴の子どもたち-原爆症とたたかった佐々木貞子と級友たち」や、大型絵本、絵で読む広島の原爆など平和への願いを伝える作品なども高く評価され、今年度のJXTG児童文化賞が贈られることになりました。
半世紀にわたる那須さんの作家人生を伺いました。

朝は6時半ぐらいに起きて食事をして午前中は仕事に当てています。
午後は孫娘の子守をさせられています。
夜は10時には寝ています。
77歳になりましたが26歳の秋に広島の同人誌に入って51年になります。
無我夢中で書いてきました。
1970年代は児童文学の花盛りでした。
ラッキーな人生だったと思います。
1942年広島市生まれ、姉二人の末っ子で、父は教師をしていて、3歳の時に母と自宅で被爆しました。
強烈に残っているのは、11時過ぎに僕の家の周りは夕立ちみたいな雨が降って、屋根は吹き飛ばされて押し入れに雨宿りしながら、桃太郎の物語が載っていて、その絵を見ていて綺麗な色だったこと、その記憶が残っていました。
午後になったときに家の前は国道で市街地から被爆者が行列になって逃げてくる姿を見た記憶があります。
泥人形が歩いているようでした。
水を飲ませてくださいといって、水を飲んでお礼にミカンの缶詰をもらいました。
火傷しそうに熱くて、ふうふういいながら食べた味、色これは鮮烈に覚えています。
恐怖感とかは一切感じていませんでした。

学校から帰るとすぐに外で遊んでいました。
上の姉とは13歳違っていてあまり記憶になく、二番目の姉は9歳違っていてその姉にはかわいがってもらい、後年児童文学の道に進んだのは彼女の勧めでした。
映画を観たり、ラジオドラマなどなどを聞いたりしていました。
本はあまり読まずにいましたが、小学校4年の時に手塚治虫の鉄腕アトム(当時は「アトム大使」だった)を読んで、5,6年の時に弟子入りの手紙を出しましたが、義務教育は出なさい、デッサンを勉強をしておきなさい、一般教養を身に付けておいた方がいいと丁寧に便せんに書いてありました。
手塚治虫が昆虫採集をしているという事で6年生のころから昆虫採集を始めて、大学に行ったのもその影響です。
山登りに傾斜して山ばかり登っていました。
求人案内が来て、東京なら谷川岳、日本アルプスにも近いから昇れると思って受けて受かることができました。

自動車のセールスの仕事でそこそこ売りました。
10年後の自分のイメージを思ったら考えて、2年後に辞めることにしました。
父は書道塾をやっていて300人ぐらいいて、上の姉と父がやっていて手伝えという事になりました。
二番目の姉が広島の童話を書くサークルに入ることになり、僕も入ることにしました。
広島児童文学研究会に山口 裕子 さんの家で集まりがありましたが、若い女性の集まりをイメージしていたがおばさんばっかりでしまったと思いました。
「ひばりになったもぐら」を創作してその会で読んだら、古いといわれてしまいました。
僕が子ども時代でも夢中になって読む様な作品を書こうと思って、書いていたら30歳になるちょっとまえに「首なし地ぞうの宝」というものが本になることができました。
その後はとんとん拍子と行きました。
「ズッコケ三人組」(当時は「ずっこけ三銃士」という名称でした。)は「6年の学習」に1年間連載されました。
「ズッコケ三人組」に編集者坂井宏先さんに勝手に変えられてしまいました。
後から考えるとよかったと思います。
挿絵は前川かずおさんでした。

内容は多岐に渡っていきました。
兎に角人の書かないものをやろうと最初から思っていました。
「ズッコケ三人組」は判り易く面白く書こうと思って取り組みました。
デング熱が2,3年前にはやりましたが、僕は15,6年前に書いています。
先見の明があったと思います。
広島児童文学研究会の子どもの家という同人誌は被爆体験を童話の形にして残していこうというのを目標の一つに挙げていました。
私自身は物語の素材として原爆を書く気がなかった。
その後原爆に対して情報収集したり、原爆のことを書いておかないといけないと思うようになって、乾 富子さんという大先輩が那須君も被爆者なんだから原爆のことも書きなさいと言われました。
フッと思い出したのが佐々木禎子さんでした。
佐々木禎子さんのことを書こうと思いました。
佐々木禎子さんのことを2年かかって調べ始めました。
自分が書かないといけないという気持ちになったのはこの作品が初めてでした。
「折り鶴の子どもたち」 原爆のこの像の建立の事については一級の本であると言っていただけます。

「折り鶴の子どもたち」を書いた時にいかに自分は原爆のことについて無知だったかという事を思い知らされました。
子どもたちが広島にきて話を聞いてその時は泣くが、外に出ると私たちは原爆に会わなくて良かったと、原爆のことを伊勢湾台風と同じ様に捉えているというんです。
災害としてとらえ、人災であるという悲劇だという事をきちんと学習して来てほしいと思うが、良い本が無いという事で、那須さん是非そのような本を書いてほしいといわれました。
企画書を書いてそれから始まりました。
「ズッコケ三人組」も去年から70代おじいさん3人とタヌキの話になりました。
自分自身も後期高齢者になり、妻が独居老人の家を訪問していろいろ話を聞きますし、タヌキをセットにしてマリリンモンロー、ディマジオを見たことがあるのでそれも取り込もうと思いました。
今は低学年用の探偵ものを2作進めています。