2019年10月24日木曜日

秋吉久美子(女優)            ・【私のアート交遊録】いつも自然体で!

秋吉久美子(女優)            ・【私のアート交遊録】いつも自然体で!
生まれは静岡、6歳から女優として上京する18歳までを福島県のいわき市で過ごしました。
1974年映画「赤ちょうちん」でデビューし、青春三部作と言われた、「赤ちょうちん」、「妹」「バージンブルース」でブレーク、その後も数多くの映画やTVドラマで活躍します。
しかし、秋吉さんは女優にとどまる事なく次々に新境地を開拓します。
40代でアメリカ映画「トップガン」の編集技術に衝撃を受け、アメリカで編集技術を学びます。
さらに50代では早稲田大学大学院で行政や地方の経済を学びます。
東日本大震災後、秋吉さんは消費者庁の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されます。
ここで大学院で学んだことが生きてきたといいます。
さらに故郷いわきに伝わる「おじょんこ」という綿を入れた袖なし半纏を後世に残そうと同級生三人と故郷応援活動を始めます。
自分の体の中を流れる血の半分は東北人だと意識する毎日、故郷に何ができるか自然体で向き合っているという秋𠮷さんに故郷への思いや、未知の世界に飛び込む活力の源はなにか伺いました。

父は体が弱くて高温多湿の四国の徳島から環境のいいといわれる福島県のいわき市に急に転勤しました。
6歳の時でした。
浜通りは茨城に近くて方言も茨木弁に近かった。
海のもの、果物など食べるものは豊かでした。
優等生で自由に動き回っていました。
女優に対するイメージは全くなかったですが、高校の時には周りが頭が良くて、勉強は周りに任そうと思って、私は自由にリサーチして歩こうとか、自由に放課後いろんな人とコミュニケーションをとって今の時代を考えていこうと思って、受験勉強しなくてはいけなくなった受験勉強しながら深夜放送でラジオを聞いていたらオーディションの話があり、これに出ちゃえば受験勉強しなくて済むと思って動きましたが、主演には選ばれなかったが、助監督などのプッシュがあって、或る自殺する文学少女の役をやる事になりました。
当時(45年前)7万円もらえて母が貯金しました。
自分が自由過ぎて、非常に束縛の多い、噂の多いつらい環境だという感じがしました。
1/10ぐらいに抑えたがそれでも言われてしまいました。
学生時代は図書館にいって本をたくさん読んでいましたので、漫画を読んでいないとやっていられないと思って漫画を読んでいました。
漫画を読んで社会勉強にはなりました。

40歳の時に突然アメリカに行きました。
2年前から計画していましたが、ロンドンで英語を学んで、一旦これまでの女優業を止めて、映画学校に入れるかなと思ってモーションピクチャー部に入って編集、ライティング、フィルムメーキングを勉強しようと思いました。
「トップガン」の映画を観て、凄い刺激を繋げてゆく秘密を知りたいと思いました。
その前にイギリスでまず2年間ロンドンで英語を学び、その後アメリカに渡りました。
編集室に入りびたりになりました。
ずるをしていると思われるぐらいいつも編集室にいて、クラスで発表した時にこんな細かい編集は見たことが無いといわれました。
そういうところから人間関係が生まれてくるわけです。
今まで演技する人、照明をする人など横並びに考えていましたが、自分で勉強してみるとこんなにたくさんのことをするのかと監督に対する敬意が生まれました。
大変なことをしている順番に敬意を得るんだと思いました。

50歳代で早稲田の大学院に入ることになりました。
母はスーパー主婦でした、なにからなにまで作るし、70歳過ぎてからコンピューターをやった人です。
両親を亡くして両親が一番喜ぶことは何だろうと考えたところ、高校を出て女優になった道をもう一度学問の場に戻ってやり遂げる、そして貢献することをしようと思いました。
或る友人から公共経営の専門職の大学院があってそういったところに入るべきだといわれました。
大学を出なくても論文、レポート、大学院でどういう事をしたいかとか、いくつかのハードルを乗り越えて入ることができました。
一流の先生が教えてくれるので、慣れてきたらこんなに楽しいところかと思いました。
早稲田大学大学院公共経営研究科で、大きく言えば世界の進む道、宇宙開発をやるかやらないかも公共経営です。
遊園地が死んでいて、どうやって活性化するか、限界集落をどうやって活性化するかとか、など何から何まで公共経営なんです。
どこに目をつけて経営してゆくかという事です。
何を軸にしてどのように膨らましてどのように管理してどのように豊かにするか、そういうすべてです。

みんな自分の研究にプライドを持っていて、人の真似もしたくないし、率直に教えてくれます。
大学院を卒業して、何か貢献できるものがあればと思いました。
東日本大震災後、故郷福島の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されました。
行動できる大人として参加出来ること、導かれることあるんだなと思いました。
「東北未来頑張っぺ大使」での内容は結構深刻で、原発の問題もあるので、正しい数値を知ってほしい、数値的にはOKでも不買い的な認識にならないでほしいと広く呼びかけるもので、消費者庁から要望されました。
正しい数値とは何なのかとかわからなくて、勉強させてくださいと一旦はOKの返事はしませんでした。
「東北未来頑張っぺ大使」とは別に或る公民間をお借りして地域活性のベースにできたらいいんじゃないかと思って高校生の同級生たちと支援活動をしていました。
有機農家のリーダーを紹介してもらって見学しました。
稲を刈った後の藁を田んぼに敷き詰めると放射線の汚染物を吸い上げて、明らかに数値が安全領域に入るわけです。
それを農家が笑顔で自発的にやっているわけです。

その笑顔を見たらアッと思ったんです。
数値は安全だと彼は言っている、消費者庁も安全だと言っていて、カチンとはまりました。
私なりに動いて勉強してこれでいいという風に思って、何かがあった場合には自分がしょえばいいと思って「受けさせてもらいます」といいました。
女優という仕事の一部分は見た目だけではない美しさ、人間としてのはかなさ、とかそういうものが若い時とは違う意味で表現できるいいところに入って来たと思います。
アンチエージングとナイスエージングの両輪でやっていきたいと思います。
我がままで自由奔放で意地悪だったり恐ろしかったり、いろんなものが封じ込まれたものが出てきちゃった姿に、みんなが面白みとか情けなさとか、はかなさを感じるような役がやれたらいいなあと思います。
私は物欲はあるけれども執着心はないと思っていましたが、ルーブル美術館でモナリザを見たときに一言でいえば、この一点おきて破りだと思うんです。
自分の今までの人生、世界中の名所名跡、名品、価値、愛、何もいらないモナリザさえあれば何もいらないと思って、凍り付いたように1時間立っていました。