2019年10月11日金曜日

田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ

田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ
射撃は来年の東京オリンピックパラリンピックで埼玉県で開催される競技です。
田口さんは大阪府出身、25歳の時に脊髄の欠陥の病気を発症し車いす生活になりました。
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場アテネでは7位北京では8位に入賞しました。
現在は東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレーアンバサダーなども務めています。
テーマは「車いすからパラリンピック、そして2020年へ」

パラリンピック、身体障害者を対象にした競技大会では世界最高峰の障害者スポーツ大会でパラリンピックは同じ場所でオリンピックの後に夏も冬も行われることになっています。
卒業後客船飛鳥のパーサーとして働いていました。
25歳の時に突然身体全体に激痛が走り救急車で病院に運ばれました。
気づいたときには両足は動かなくなっていました。
原因がわからずいろんな検査を受けて1週間後に判明したのは、脊髄の中の血管が破裂して中枢神経を圧迫して胸椎の神経を傷つけたことが判明しました。
交通事故による脊髄損傷と同じものでした。
リハビリを一生懸命すれば元に戻れて船の仕事に復帰するんだと思っていたが、3か月後に脊髄損傷専門のリハビリのある病院に転院しましたが、いきなり医師から現在の医学では脊髄の中の神経は一旦切れてしまうとつなぐことはできない、君は一生歩けないよと言われてしまいました。
リハビリすれば歩けるんだと思っていたので最初は理解できませんでした。
車いすでのリハビリを受けることになりました。
辛かったのを覚えています。
どうやって生きていくんだろうと落ち込みました。

病院のベッドで暮らせばいいんだと思った時期もありましたが、友達が病院へ来てくれたり、飛鳥の同僚、船長が休暇の度にきてくれていろんな話をしてくれました。
みんな一日一日きらきらするように過ごしていて、自分としても何かしないともったいないなあと思いました。
退院後の車いすでのリハビリに励むようになりました。
ふたつの目標を決めました。
①車に乗る事 
今は片道60km 車を運転して仕事場まで通っています。
②床から車いすに乗る事
穴が開いてたりして前の車輪がおちて転げ落ちたり、スロープの2~3cmの段差で前のめりに落ちてしまうことなどがあります。
段差は視覚障碍者にとっては歩道にいるのか、車道にいるのかのわかるようになっている。
外出して車椅子から落ちてしまったら、自力で載れるようにしないといけない。

あきらめきれず治るのではないかと4つの病院で1年半入院生活をしてから家での生活をすることになりました。
発病後2年半後仕事に復帰しました。(日本郵船)
飛鳥の会社の人たちが働ける場所を探してくれて、働く環境があったという事は恵まれていると思いました。
仕事で心掛けていることは手を抜かないという事です。
最初は周りの人が不安でいろいろ助けようとしていました。
今は私が言わない限りはだれも手伝わないです、私自身はそれでいいと思っています。
障害者にも権利と義務があると思います、自分でできることは自分でやらなければいけないと思っています。
できることがあるという事がうれしいし、やって行くとどんどん増えていきます。
仕事以外にも何かできることはないかなあと思って、以前リハビリで同じ病院にいた友達から誘われてビームライフルの教室に月に数回行くようになりました。

ビーム大会に出られるようになり優勝することができました。
実弾の銃、空気銃をやるようになりました。
国内大会に出たり世界大会に出場するようになりました。
世界大会でいい成績を収めるようになり、コーチからアテネパラリンピックに出られるかもしれないといわれました。
2年後のアテネパラリンピックに出るためには、3か月後の国内大会で上位になれたら海外遠征の日本代表に選ばれるんじゃないか、国際大会で上位の成績を収めたら世界ランキングが高くなるのではないかという事で、2年先のことを考えている自分にはっと驚きました。
それまでは先のことを考えることが怖かった。
前向きな自分になっていることに驚きました。
目標を持ったことで努力ができたんだなと思います。
周りのコーチ、監督、同僚友人、家族の支えがあったからできたんだと思います。

ピストルと、ライフルがありますが、私は屋内競技 10m先の標的を狙う空気銃、10点は0.5mmの点です、50分の間に60発撃ちますが、現在の世界のレベルでは60発全部を当てないとファイナルベスト8になれません。
もう一つ屋外競技、50m先の標的を狙うフリーライフル。
22口径の火薬の弾を使用する銃で、10,9,8点とありますが、10点圏は直径1、4cmで狙って打ちますが、60発中52発ぐらいは10点台に当てないといけない、残りは9点に当てないとファイナルベスト8に残れないです。
集中力、精神力が必要になってきます。

2020年に埼玉県で射撃が開催されます。
パラリンピックの原点は1948年ロンドンのオリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院で開催されました。
車いすスポーツ競技と言われている、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により始められました。
グットマン博士の言葉に「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という言葉があります。
当初は入院患者のみだったが、毎年開催されて国際大会になり、1960年、ローマでオリンピックが開催されたときに、第一回パラリンピックが開催されました。
1964年東京オリンピックが行われ第二回(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会)になりました。(パラリンピックが正式名称となった年です。)
その時には中村裕先生が尽力されました。
中村先生はストーク・マンデビル病院に留学して、スポーツを医療の中に取り入れて多くの脊髄損傷患者がリハビリの一環としてスポーツを行い、治療するのを目の当たりにして強い衝撃を受けました。
中村先生は日本でのパラリンピック開催を使命と考えて、開催の意義を説いて回って東京オリンピックの開催の後に開催されました。
東京パラリンピックを機に日本の障害者スポーツが広く認知され、普及し、障害者の自立や社会参加が考えられるようになりました。

2016年パラリンピックは159の国、地域難民選手団で、選手は4300名、22競技、528種目となりました。
国際パラリンピックの価値として
①勇気
②強い意志
③感動
④公平
2020大会 3つのコンセプト(オリンピック、パラリンピック)
①全員が自己ベスト
②多様性と調和
③未来への継承

アクセサビリティー 日本ではバリアフリーともいわれています。
WHOの調べでは世界の人口の10%は障害者だそうです。
妊婦、ベビーカーを押している人、けがをしている人、高齢者を含めると20%がアクセサビリティーが必要だといわれています。
ハード面のバリアーフリーとソフト面のバリアフリーは日本ではまだイコールではないのかなあと思います。
障害者用の駐車場、トイレなど健常者が使っているのを見ると外国人はびっくりすると思います。
お互いができることで尊重しあって思いやることが共生社会なのではないかと思います。
東京2020パラリンピック聖火リレーのコンセプトは「あなたはきっと誰かの光だ」です。
パラリンピック聖火リレーは初めて出会う3人がチームを組んでリレーを行います。
新しい出会いが共生社会につながるという期待を込めて3人で行います。