2019年10月18日金曜日

泉麻人(コラムニスト)          ・【わが心の人】三木鶏郎

泉麻人(コラムニスト)          ・【わが心の人】三木鶏郎
三木鶏郎さんは大正3年東京生まれ、戦後に放送したラジオ番組、『日曜娯楽版』での「冗談音楽」が評判となり人気者となりました。
その後コマーシャルソングも数多く手がけ人々を楽しませ続けました。
平成6年10月7日に亡くなられました、80歳でした。
泉麻人さんは今年の5月『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 :ラジオとCMソングの戦後史』という本を出版されました。

学生の頃広告研究のサークルに居たので三木さんにはCMソングから入りましたが、昭和20年代にNHKで画期的な番組をやられた方でした。
本名、繁田 裕司 芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着したといわれる。
「鉄人28号」の主題歌、が最初になじんだ曲です。
『日曜娯楽版』をやっていたのは終戦直後2年目から1927年まで。
「南の風が消えちゃった」という曲を作って、焼け跡の喪失感を明るいメロディーで作って、明るい歌でこれをいきなりNHKの音楽担当のディレクターにもっていって、面白い曲を元にした番組をやらないかという事でいきなり番組を持たされる。
「歌の新聞」というタイトルで『日曜娯楽版』の前身となったものです。
昭和21年1月が「歌の新聞」の出発点となる。
昭和22年の秋から『日曜娯楽版』として放送が始まります。

最初は時事風刺を元にしたドラマ、後半は通称「冗談音楽」で展開も早く切りかえも早い。
ジャーナリスティックな部分が売り物でもあり、物議をかもすことも多かった。
GHQが放送を管理していたのでお伺いを立てなければならなかった。
その後番組が終わり、そのあと同じような形の番組が民放ラジオに受け継がれる。
民放ではコマーシャルを作ることになり、CMの作詞作曲の世界に入ってゆく事になります。
三木さんの父は法曹界で判事をしていたがその後弁護士となり、弁護士事務所を開いており、その道に進むように父から言われていた。
母親側が飯田橋で料亭旅館をやっていて芸能センスを持っていた家柄で、祖父は派手好みの趣味人で綺麗どころを集め生前葬をやって長い行列ができたとか。
大正3年生まれで、4,5歳時にベビーオルガンを買ってもらった。
6,7歳には父に連れられてフランス料理のレストランで御馳走をクラシックの音楽を奏でる中で食べる。
東大の法学部に入り、今のブラスバンドみたいな活動をする。
1941年1月10日に二等兵として陸軍東部第六部隊へ入隊する。
間で戦争があったという事が大きいと思います、すべてがなくなったときにプロの音楽家を目指すみたいなことになった訳ですから。

民放の中部日本放送とか名古屋の方が一番最初の開局で、カメラフィルムメーカのスポンサーのCMソングの原点といわれる歌がある。
三木さん作詞、作曲の「僕はアマチュアカメラマン」というタイトルがついている。(商品名は出てこない。)
三木さんはCMソングは擬音をうまく使いながら商品名を連呼するものが多いのが特徴的です。
ライバル会社のコマーシャルを同じ年に作っていたりしました。
ディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めた。
そうそうたるメンバーが三木さんの門下に入りました。
活動に際しキノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如らとトリローグループを結成。
昭和31年に会社を設立、社長は若い永六輔さんでした。
門下からは歌手(丹下清子、楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)など、多くの人物を世に送り出している。

来年と東京オリンピックがあるので1964年ごろの東京の話を執筆しています。
そういう場所がなくなりつつありますので。