2019年10月26日土曜日

山田太一(脚本家)            ・【舌の記憶~あの時、あの味】

山田太一(脚本家)            ・【舌の記憶~あの時、あの味】
山田さんは昭和9年東京浅草に生まれました、85歳。
大学卒業後、松竹大船撮影所を経て1965年フリーの脚本家としてスタート。
NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」はじめ「岸辺のアルバム」、中井貴一さんや柳沢慎吾さんらが主演しました「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマの脚本を手がけました。
時代のなかで老いや家族の関係など社会の問題を見つめてこられました。
2017年1月に脳出血で倒れた山田さんですが、現在はかなり回復されゆっくりと療養の日々を送っています。
「ながらえば」、「冬構え」、「今朝の秋」の老いをテーマにした三部作も書かれています。
大病の後どのような思いで過ごしているのか、戦時中家族で神奈川県の湯河原へ強制疎開をさせられるなど、戦争に翻弄された山田さんの思い出の食べ物はどんなものなのか伺いました。
病に倒れてから間もなく3年になりました。

体調もいいんです。
これで死ぬと思ってこの3年間でほぼ切れると思っていましたが、気が付くといつ死ぬかわからない、遅ればせながらそれが人間の最後の問題だと気が付きました。
変なところに追い詰められたと思っています。
生き方を変えないといけないと思っても翌日死ぬかもわからない、非常に変なところで生きているという思いがあります。
7時半ぐらいからご飯を食べて、昼、3時の時間、最後の食事ということは基本的にはここにいると決まってしまって、その間は個人的にあってくれる人があったり、できるだけ外に出たいので外に出て歩いています。
ずーっと日記をつけていましたが、病気になって以来一切それは無しです。
この3年間はこんなことはあったかなあと疑問にしても、どうにもならないぐらいになってしまいました。
新聞、本などは読みますが、少なくなりました。

生まれて10年は普通にいきましたが、あとは大混乱の中で食べていましたので、食べられればなんでもいいという感じでした。
食べ物に対する危機みたいな気分はありました。
勤め先の大船ではみんなと同じような食べ物を食べていました。
戦争が始まったらどんどん悪くなりそのあたりで一番贅沢だと思ったのは、雷門のすき焼き屋さんへ行ってご飯をみんなで食べたという事は、実に珍しいことであるけれども実に忘れがたいことでした。(小学校5年生の時)
なんであんなことが可能だったのか、実に珍しいことでした。
食事というのは大事なシンボルだと思いますが、自分のものにならない。
朝何時に食べてと言う時には、そこで食べるものしかなかったという事が多かったので。
母も死んでしまいましたし、自分で用意するしかなかった、ひどい時代でした。

「岸辺のアルバム」は大事な作品だとは思います。
温かいホームドラマではなくて、自分の気持ちとしては一番家族が、という感じが思いの中にありました。
「ふぞろいの林檎たち」 知らない人ばっかりで作品を作ってみようと思いました。
俳優さんも知らない人ばっかりでやりました。
凄い意欲がありました。
パートⅠ、ⅡまではよかったがパートⅢになるとちょっとぐじゃぐじゃになってしまうという風に気持ちが自分の中にもありました。
パートⅢになって、こんなことをこうやって一度始めると続けなければならないといういらだちがありました。
どこにでもいる人達だが、ひとりづつ大事な素材だという事は感じました。
その中でそれぞれが生きてゆくためにはそれぞれの出発とか、エンドマークだとか色んなものが錯綜してあることが、全体として不ぞろいだからよかったというか、良い人ばっかり並べるという事はなかったです。

父は「おまえのことなんか誰も思ってない」と言われて僕もそうだろうと思いました、そんなに特別なことだとは思わなかったが、しかしそれが基本にあるのかもしれません。
父親も一人の人生として生きていくわけで私もある程度になると一人で生きてゆくしかないわけだから、という風なことは考えました。
ある程度事実に近いものでやろうと思いました。
「男たちの旅路」 41歳の時に書いた70,80歳の老人の気持ちのセリフについては、自分の中にあったんだと思います。
世代も背景も異なる警備会社の社員たちが、仕事の中から拾い出した疑問に対し真面目に向き合う姿を描く。
特別な人を書こうと思ったりしたわけではないです。
色んな年齢の人を書こうと思っていましたが、人間がみんなバラバラに、一緒にずーっと死んでゆくし、一人の人はなかなか死なないとか、実にバラバラにそうなんだと今一番身近にそう思います。
自分がなるまで、人もみんなあのくらいになるとあのくらいで死んでいくのかと考えていたが、自分の番が来ると自分がどこにいるのかわからないぐらいバラバラだという気がして、そんなことって真面目に考えていなかったんだなと今となっても感じます。
それぞれ老いがばらばらにあり、一人一人をつかもうとすると大変なんだと思います。
思いがばらばらであり、自分で思うようにならないわけで、多くの人はそこで最後の歳を迎えているわけです。
そこの細かな感じ方は自分がその歳になってみないとなかなか出てこなかったんじゃないかと思います。

結局自分の知っている範囲で書いているわけですが、その代表者としてそういう人たちの身にできるだけ近づけようとすることで僕らの仕事は試されされていると思います。
人間って物凄く実はバラバラだと思います。
だからひとつのラインで書こうとしたって、それは力が動かないと思います。
書くしかない、どこまで書いて良いかわからないが。
そんなことは言いたくないという人が実際結構いるわけですが、一人だと言えないことが大きな層としているぐらいいると思います。
わーっと大勢になる人を大衆の声だと思っているわけだけれど、実はそうじゃない人たちの方が多いですよね。
そのことを知るという事も大切です。
死ぬという事がどういうことかという事をはっと判るように書けたら素晴らしいと思います。
明日、明後日どうなるか判らないという事は、こんなにまざまざとわからなくさせることの不思議さみたいなものを気付くまで随分時間があったなあと思います。
生まれた浅草に行きましたが、びっくりしました。
こんな風に時代が変わっていくのかと、その面白さであって、いろんなことを感じました。