デヴィ夫人(タレント) ・【私のがむしゃら時代】デヴィ夫人 2回目
正式に大統領夫人になるのは、3年後の1962年 自分が守り続けると心に決めいていた日本の母と弟が亡くなってから間もなくのことです。
それから3年1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年に亡くなります。(デヴィ夫人30歳の時)
スハルト新政権下のインドネシアでも、マスコミで非難された続けた日本でも暮らすことが出来ず、デヴィ婦人は一人娘のカリナさんとフランスに渡り、華やかな社交界に身を置きますが、10年後インドネシアに戻り、実業家としての日々を送ることになります。
現在タレントとして幅広く活躍のデヴィ夫人にどのようなガムシャラらな日々があったのか、どのような思いで道を切り開いてきたのか伺います。
妻としての役割はほとんど無くて、この方の健康を気を付けて政務をやってもらおうと思い、一番いいアシスタントになることが私のベストなのかなあと思いました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式はしました。(大統領官邸内の小さなモスク)
日本には母と弟がいて日本の籍は抜くと言う事は思ってもいませんでした。
スカルノ大統領に呼ばれてインドネシアにいってから2週間の予定だったが、日本には帰りませんでした。
年に1回日本には帰ってきましたが、最初の時は母も弟も元気でした。
私という娘がいたということは諦めて、私という姉がいたことは諦めてと言うような冷たい言葉を残したこともありました。
大臣、官邸の方等には私が結婚したことは知っていましたが、一般の庶民には知らされていなかった。
1962年2月に母が亡くなり、その2日後に弟が自殺して、日本国籍になっていることは必要無くなり未練も無くなり、3月3日にインドネシア国籍を取り名前もデヴィ・スカルノに変わり正式に大統領夫人になりました。
インドネシア語の勉強、歴史、伝統、慣習などを身につけました。
フランス語とピアノも習いました。
大統領とのコミュニケーションは英語でした。
若い外国の女性が妻となると言うことに関しては、冷ややかに見る人達もいました。
他にも妻がいまして、彼女のいやがらせと彼女の一派から策謀に遭いました。
時間とともに私を守ってくれる人が増えてきて、陸軍の奥様方は私派でした。
1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年にスカルノ大統領は亡くなります。
フランスに渡り華やかな社交界に身を置きます、公爵と婚約という言うこともあったが破局、1979年にインドネシアに戻る。
(スカルノ派の人間が66年から69年までに、120万人殺されてしまいました。)
インドネシアに戻りカリナとともにいると、周りから大勢集まってきたり、新聞などに大々的に報道されたりしました。
石油関連事業を興し実業家として活動し始めたが、スハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。
カリナはボストン大学に入って、卒業すると同時にアメリカに行きたいと思っていました。
インドネシアの生活が非常につらくなって、1991年ニューヨークに移住する。
国連環境計画があり特別顧問として働きながら生活していました。
日本にいた9カ月間にマスコミからのバッシングがあり、日本には二度と踏むまいと言う気持ちで日本を立ちました。
或る時TVを見ていて、100歳以上の人が3千何百人がいるということで、或る意味凄いショックでした。
100年生きられると思った時に、新しい人間として生きてみたいと思いました。
美川憲一さんの紹介でTV番組に出ることになり、ニューヨークと東京を往復するようになりました。
新聞にタレント デヴィ夫人と書かれていてすごくショックでした。
これからはタレントとして人生を謳歌すればいいのではないかと思うようになり、いろんなことにトライするようになりました。
今は中傷記事でも反論できるが、40年間外国にいた時には反論する機会さえ無くて書かれ放題でした。
それが無くなったので安らかな時間というか、今は言われたら言い返します。
105歳まで生きたいという目標はあります。
地球温暖化は危惧しています。