2018年9月21日金曜日

筒井之隆(安藤百福発明記念館横浜館長)  ・【わが心の人】安藤百福

筒井之隆(安藤百福発明記念館横浜館長)  ・【わが心の人】安藤百福
安藤百福さんは明治43年生まれ、世界初のインスタントラーメンやカップめんを発明し、世界の食の変革をもたらしました。
平成 19年2007年1月に亡くなられました。 96歳でした。
安藤百福発明記念館横浜館長 筒井之隆さん 同志社大学を卒業後、読売新聞大阪本社に入社し記者をしていました。
取材を通して安藤さんと親しくなり、スカウトされて日清食品に入社しました。

朝のTV小説「まんぷく」がそろそろ始まる。
モデルが安藤百福さんと仁子さんご夫妻。
安藤百福さんの資料は何にもないんですが、安藤仁子さんをよく知る人に取材して、今まだ判らなかったことが一杯わかってきました。
安藤仁子さんの展示会を開いて、来年3月末で開催しようとしています。
朝のTV小説「まんぷく」で事実だけ深刻に描かれても面白くないので、面白おかしくて展開するだろうと期待しています。
私は22年間そばに居て薫陶を受けてきました。
日本人ってインスタントラーメンが好きなんですね。
安藤百福発明記念館横浜館は今年で7年目ですが、毎年100万人の人が来ています。
自分でデザインして、スープ、具材を選んでオリジナルのカップラーメンを持って帰れるようになっています。(1日 3500人)
ここのコンセプトは小さいお子さんに発明発見の大切さを伝えたい、これは安藤百福さんの強い思いです。

安藤百福さんは小さい時に両親を亡くして、大変苦労して大きくなりました。
インスタントラーメンの発明が、今世界で年間1000億食です。
子供達に小さな発明発見でも実現すると、こういう大きなことができると言うことを是非伝えたいと、クリエーティブ シンキング(Creative Thinking)を呼びかけているんです。
大人は500円いただいていますが、高校生以下は無料で入れるようになっています。
発明した時の小さな小屋が再現されている。
元々はこういうみすぼらしい小屋からできたということを、子供達に見せたいと言うことで、奥さんの反対があったが展示に至ったそうです。
インスタントラーメンの発明も47歳のときであった。
最初の事業で資産を蓄え、その後失敗したり成功したり繰り返して、47歳の時に信用組合の理事長をやっていたが倒産して、責任を取って財産を全部失います。
人も離れ仕事も無くなり、一念発起でインスタントラーメンの発明に取り組み、1年半位かけて研究して成功されたということです。

安藤百福さんは食べ物の苦労をずーっとしてきて、終戦後は食べるものも無く餓えて亡くなっていく人を沢山見て来ました。
人間に取って食べ物がいかに大事かを肝に銘じた。
阪急梅田駅の裏に闇市が建っていて、戦後或る屋台の前に物凄い人の行列がならんでいた。
そこでラーメンをみんなが幸せそうに食べていました。
ラーメンはこんなに人を幸せにするんだと言うことを思ったそうです。
栄養食品の開発をしていた時期があり、自分で研究所を作って、アメリカの余剰小麦を日本に持って行って日本人に食べさせようとして、学校給食はパンでした。
安藤百福さんはそれに異論を唱えた。
ラーメンみたいなものを作ればどうかということを提唱した。
ラーメンならスープ、具材、栄養もあり、(一汁三菜)が丼の中に全部入っているから、何故やらないのかとお役人に言ったそうです。
長持ちしないので麺類作っても大量に流通したり、全国の学校に配ることは無理だと、あんたが考えたらどうかと言われてしまった。
それが頭にこびりついて10年経ってから、倒産になった時に思い出して、ラーメンを作れば多くの日本人に喜んでもらえるのではないか、ということで取りかかったという事です。

一番苦労したのが、スープの味をしみ込ませることと、長期保存ができないといけない。
即席性がないといけないということで、お湯を掛けて直ぐフワーッとラーメンになるという発想は、今まで誰もやってこなかったことをやろうとする訳です。
これに悩んでいた時に安藤仁子さんが天ぷらを揚げていた。
衣を付けた天ぷらを油の中に入れると、水分の重さで沈んで、水分をはじき出してカラッと揚がったてんぷらが浮き上がってきて、その時にひらめいた。
麺で試してみたら、麺が水分をはじき出して浮きあがってきてカラッとした状態になっていた。
水分をはじいてほとんど水分の無い無菌状態を維持できるような麺になり、何も添加しなくても半年以上保存できる状態が出来た訳です。
水分をはじく時に無数の穴が明き(多孔質)、麺にお湯を掛けた時に穴に浸透していって、3分でおいしい麺の状態に復元できることになり、これが今世界で作られている基本技術なんです。(それを越える技術は無いんです)

簡便に食べられるラーメン、袋入りのラーメンは世界には普及していかなかった。
外国には丼も箸も無いから、容器に麺を入れてフフォークで食べるような商品を開発したら世界商品になるのではないかと考えた。
研究を開始する。(61歳)
遂に完成してそれが包装容器であり、物流の容器であり、食べる時には調理用容器でもあり、丼でもあるということを大層自慢していました。
宇宙食の開発なども手掛ける。
多分ものつくりが好きだったと思います。
研究開発してそれを発売して、多くの人に喜んでもらいたいという想いが物凄く強い人です。

私は新聞社にいて、安藤百福さんに出会った時には気持ちのゆとりがあるころで、郷土料理はきっと身体に良くて素晴らしいことがあるはずだから、一度調べたいと言う話があり、そこから日本全国の郷土料理を3年半ぐらい調べ歩きました。
忙しい人なので1泊2日なんです。(温泉とゴルフが好きでした)
会社に来ないかとの要請があったが、暫く返事をしなかった。
うちに来て新聞をつくればいいんじゃないかと言われて、新しい社内報を作ることになりました。
新聞社からは3週間前では就業規則違反だと言われてしまい、安藤さんがうちの社長に話をしてくれました。
退社することになりましたが、必要無くなったら戻してほしいと、うちの社長が言ってくれて男冥利につき感動しました。
安藤百福さんは、社員の方は物凄く厳しい怖い人だというと思いますが。性格的には凄くチャーミングな方でシャイなところもあって、好奇心が旺盛な人です。
安藤百福さんと延べ35日間中国に行ってラーメンを食べましたが、300食たべました。(一日 10食ぐらい)

昭和33年ごろに街頭TVに沢山集まる人々を見て、TVという媒体はこれから物凄く力を持つだろうと、いきなりコマーシャルを作って放送したんです。(好奇心、先見性)
会長室の奥に立派な調理室があった。
時々自分で作って一緒に食べたりしました。
納豆の粘り、臭いを消す為の対応も考えたりしました。
納豆ピラフの作り方を指示したりして、夕方には出来たのかとせっかちに電話していました。
96歳、(2007年) 1月2日にゴルフで109を出しました。
4日に年頭の挨拶を30分間立って話しました。
5日に心筋梗塞で亡くなりました。
「元気に生きて元気に死ぬ」と言う人生を見事に全うされました。