講談師 神田 蘭
近代日本における最初の女性の医師免許を取得した荻野吟子を取り上げる。
講談による紹介
明治の初めこの日本には女医さんはおりませんでした。
強い意志で苦難を乗り越え日本の女医第一号になった。
1851年3月3日(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
10歳のころは四書五経をそらんじていたとか。
17歳で荻野吟子は北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男の元へと嫁ぐ。
結婚して1年もたたぬうちに淋病にかかってしまう。
夫の女遊びが原因で淋病をうつされた。
激しい痛みと精神の苦痛、療養の為実家に帰るとその夫とは協議離婚となる。
周りの冷たい目もあり家に引きこもることになる。
順天堂医院に入院し婦人科治療をうける事になる。
治療にあたった方が全員男性で恥ずかしさ、恐ろしさ、情けなさで頭が真っ白になり、こんな恥ずかしい思いをするなら死んだほうがましだと思った。
せめて女性の医者がいてくれたらと吟子は思いました。
入院生活は1年に及び屈辱的な診療の度にその思いを強くしていきます。
自分が医者になればいいんだと決意をする。
江戸時代に素晴らしい教育をしていたからこそ明治時代に花開いて発展していったと思う。
勉強の仕方が桁違いに凄かったと思う。
やってから理屈を付ける方がいいのかもしれない。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。(23歳)
本当に幅広く勉強する。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
生徒74人で明治12年卒業するが首席で卒業。
高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。
優秀な成績で卒業(31歳)。(周りからいじめにあいながら)
医師試験を受けさせてもらえなかった。(今まで前例がない女医が居ないという理由)
東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。
つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
医師試験を受けさせてもいいのではないかという人も出て来る 、その一人が森鴎外の上司の軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)で知遇を得て長與 專齋という方(医師免許制度の父と言われる)に石黒忠悳さんが談判に行ってくれた。
井上頼圀先生も資料をあさってくれたらしい。
その資料の中に古代に女性の医学博士がいるとの記載があった。
井上頼圀先生は吟子さんを好きだったらしくて後妻にならないかと持ちかけたが断ったが、先生と弟子との関係は続いた。
1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。(物理学、化学などなど)
1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。
外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、細菌学、臨床実験など非常に難しい。(34歳)
外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、細菌学、臨床実験など非常に難しい。(34歳)
新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。
湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。
女性がたくさん来て、花柳病が如何に多いか実感したそうです。
1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。
キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
江戸時代の墓が多く発掘されたりするが、多いのは子供の骨と梅毒になった人の骨(骨が黒くなるので判る)
男は吉原に行って梅毒に感染することが多かったようだ。
1890年(明治23年)11月25日 - 39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。
夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
吟子も東京の医者をたたんで北海道に移る。
1897年(明治30年)海辺の瀬棚の会津町(現 本町の一部)で診療所を開業する。
夫の之善はいろいろな方面に手を出して腰の定まらない人間だった。
1905年(明治38年)夫の之善は病を得て9月23日瀬棚で逝去。1908年(明治41年) - 荻野吟子は帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年)荻野吟子は逝去した。満62歳。
「荻野吟子の命とありぬ冬の利根」 金子兜太