2018年9月9日日曜日

山下泰裕(全日本柔道連盟会長)      ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

山下泰裕(全日本柔道連盟会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

山下泰裕さんは現在61歳、熊本県出身、熊本九州学院から東海大学相模高校に転校、東海大学に進学し、全日本選手権9連覇、3回の世界選手権とロサンゼルスオリンピックは金メダルを獲得。
その間、対外国人選手には無敗を含めて、28歳で引退するまで203連勝を続け、アマチュアスポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。
2016年2月のアンコール放送。

12月中旬にブラジルに出張しました。
リオオリンピックのオリンピック村、試合会場などの視察に約90名のメンバーで訪問しました。
現在の肩書きが東海大学体育学部教授,副学長、理事、全日本柔道連盟副会長兼強化委員長、JOC理事で強化副本部長、日本のナショナルトレーニングセンターのセンター長など。
2020年の東京オリンピックまでは腹をくくってやるが、それ以後は若い人にバトンタッチしたいと思います。
いい形で強化は進んでいると思います。
今と未来に生きる自分でありたいと思っています。
現役を辞めた時には、数十年後に私が亡くなった時にはあの山下はオリンピックでも勝っていたんだと、言われるぐらい次の人生を頑張りたいと思いました。
でも不可能だと思いました。
いつも紹介の時には金メダルを取ったことと、国民栄誉賞で終わるんです。

1980年モスクワオリンピックは日本は不参加。
その前のモントリオールオリンピックは高校3年生で補欠でした。
世界選手権は79年のパリ、81年のオランダ、83年のモスクワ、3つの世界選手権の95Kg超級は3連覇、全日本選手権も8連覇中だったが、ロサンゼルスオリンピックは27歳の時で絶頂期ではなかった。(体力的にも落ちてきていた。)
モスクワオリンピック当時が一番良かった時期でした。
ロサンゼルスオリンピック大会は231人の日本選手団のキャプテン。
公式戦は連勝記録が194連勝を続けていた。
やることをやりつくしてこれが最後のオリンピックになるだろうと思っていました。
60kg、65kg級で細川選手、松岡選手が金メダルを取り、それ以後4つの階級一つも取れずにいた。
その後95kg超級斎藤選手が金メダルを取る。

私は無差別級に出場、15名が参加。
1回戦は試合開始27秒大外刈りを返しての一本勝ち。
2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦、2分50秒寝技で勝利。
一礼したあと、足を引きずる。
内またを仕掛けた時に軸足である右足に痛みが走って、肉離れを起こしてしまった。
得意技は右足一本で支えて相手に技を仕掛けるので、私にとっては非常に厳しかった。
準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ戦、(過去全て一本勝ちをした相手だった)
10cm背が高い相手で、奥襟を取られて肩から倒れて「効果」を取られてしまう。
無意識に体が反応するはずだったが、けがをした足が動かなかったから棒立ちで受けて相手の大外刈りをもろに食らってしまった。
「お前が一生懸命頑張ります、頑張りますと言ってきた頑張りはこの程度のものか、足をけがしてこんな無様な試合をするためにオリンピックに来たのか」と、こんな声が私の内側から聞こえて来ました。
この程度の足のけがで負けてたまるものかと、鬼のような顔をして立ち上がって行ったと思います。
私の本能の叫びだと思います。
そこから相手は守りに入って行きました。
大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。(2分10秒)

決勝は巨漢エジプトのモハメド・ラシュワン選手。
ラシュワンのコーチは「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したそうです。
師匠の佐藤先生は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。
又「この試合で俺と思えの師弟関係は最後にしよう。」言う話が有りました。
「現役最後の試合と思って行け」と先生は言いたかったんだと思います。
いかに戦うかというしかなかった。
払い腰をし掛けてきた時に無意識に身体を開いてかわして、ラシュワン選手の身体が崩れる。
その瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固めに入り一本勝ちで金メダル獲得する。
中学2年生の時に「将来の夢」という作文の中で一生懸命柔道に励んでオリンピックに出て日の丸を仰ぎ見ながら金メダルを、というのが俺の夢だと言うようなことを書きました。
自分の夢が現実になった瞬間でした。
あーっ俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかなと心の底から思いました。

1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与されました。
1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、決勝では斉藤仁選手が相手。
判定勝ちして、全日本選手権9連覇を達成した。
斎藤選手は去年に亡くなってしまって残念です。(2015年1月20日に亡くなる。)
自分の夢、目標が明確であった、それは極めて大事なことだと思います。
身体が自らその方向を向いて行動をし始める。
なすべきことがなんなのかということが見えてくる。
素直な心を持っているといろんな人から色んなことを学ぶ事が出来る。
恩師の佐藤先生はマスコミに「何か教えると山下は吸い取り紙が水を吸い込むように吸収して行く」と言っていました。 
中学の時の恩師は私に常に高い目標を設定しました。(高校生では全日本に出ろとか)
「普通の人間は10教えて4か5吸収する方がいい方で、6つか7つ位吸収うするのがなかななかで、お前は俺が10言ったら12吸収した」、と言っていました。
素直な心で聞き、流されないで自分の考えを持っていることが大事。

自分が目ざしているいただき、選手時代にこんなものではいかんこんなものではいかんという思いが、現役を辞めて初めて自分が登って来た道を振り返って、こんなに頑張ってこんな結果を残したのか、いや俺自分をほめてもいいんじゃないかと現役を辞めた時に思いました。
自分で現役と引退後で自分の評価は変わりました。(引退が28歳)
現役を引退して
①全ては終わった、これから全てゼロからのスタートだ。
②柔道の指導者として生きて行きたい、自分の手で世界に通用する選手を育ててみたい。
③柔道日本の復活に微力を尽くしたい。
④選手山下の頑張りだけには負けたくない、選手山下以上の情熱と創意工夫で第二の人生を生きて行きたい。
その後30年間頑張ってきたが、選手時代に貫いてきた生き方の過去は振り返らない、今とこれからに生きる自分でありたい、という思いは私自身の人生に対する姿勢は選手時代も今も変わらないのではないかと思います。
私が一番大事にしているのは「活き活きと生きる」なんです。
ただがむしゃらに頑張るのではなく、じっくり考えることも大事です。
ありのままの自分で生きて行きたい。
人間は人生を通して成長し続けること、学び続けることができると言う思いがあるので、自分の生き方に繋がってきているのかもしれません。