延原武春(日本テレマン協会音楽監督) ・大阪からバロック音楽を広めて55年
この楽団はステージのある大きなホールではなく、室内楽にふさわしい場所を求めて演奏活動行って来ました。
大阪、船場の大正末期に建てられたレトロなビル大阪倶楽部の一室や、阪神間の閑静な住宅街にあるカトリック夙川教会の聖堂、大阪中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂などで定期的に演奏会を開催しています。
17世紀から18世紀にかけて活躍した作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann) このテレマンに魅せられた延原武春さんが、室内楽団や合唱団を立ち上げて音楽活動を続けて来ました。
今年活動を続けて55年になります。
バロック音楽、1700年代に入ってからのバッハ、ヘンデル、テレマン、ビバルディーを中心に始めた楽団です。
特にテレマン 有名な作曲家です。
いままでの作曲家で一番沢山曲を作った人と言われています。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人です。
バッハとも交友関係が長く、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。
私は小学校の頃、絵とヴァイオリンを習っていました。(戦後間もない頃)
中学ではコーラス部を立ち上げたりしました。
ヴァイオリンはあまり一生懸命ではなかったが、オーケストラを立ち上げてた時に役に立っています。
大阪音楽大学付属高校に入って、宮本先生から大笛を始める様に言われて始める。
クラリネットに似ているが、2枚リードになっていて難しい木管楽器です。
リードを自分で削って作らなくてはいけなかった。
リードは葦(フランスのある場所で取れる葦)
毎日8時間位勉強しました。
そこでテレマンの楽譜と偶然に出会うことになりました。
テレマンの研究会を作ってテレマンの事を調べだしたりしました。
バロック音楽に魅力を感じました。
外交官のお別れなどの会で呼ばれて、演奏して素敵な経験を何回かしました。
大阪音楽大学に入って、テレマンアンサンブルを結成し、本格的な活動を始める。
1963年 始めて外で演奏会を正式にしました。(名古屋)
大笛、リコーダー、チェンバロ、チェロ 4人でやりました。
根拠地となったライブハウスが、伯母がやっていたバーのような店をやっていて、そこを強引にバロックが出来るスナックにしたいと言うことで、チェンバロを置いてやりました。
本当に酒を飲みながら聞いてくれる人が聞いてくれるのだろうか、ちゃんと生活に結びついてるのだろうかとか、自分で実験したかったが沢山のお客が来てくれました。
しかし、店の経営は回転が悪くて駄目でした。(2,3年は続いた)
仲間も増えてきて、津村別院に理解あるお坊さんがいて、バロックをやってもいいと言うことで、チェンバロを運んで月例会を行いました。
その後人も増えてマネージメント出来る様な体制を作りました。
合唱団も作る事になり昭和44年に、バッハの作ったカンタータという宗教音楽をやってみたかった。
大阪テレマン協会になり、1979年には日本テレマン協会になる。
日本と言うふうに名前を付けた方が動きやすいということで日本テレマン協会としました。(ほかにも理由があるが)
教会ではなかなか演奏会はさせてもらえなかった。
1980年代は外国からやって来るアーティストとの共演も増えた時代でした。
1984年12月にライプツィヒのゲヴァントハウス・バッハオーケストラを、1985年にズール・フィルハーモニー、1989年にはライプツィヒ放送管弦楽団を客演指揮しました。
ヨーロッパでは産業革命以降、沢山のオーケストラが出来ました。
1990年ぐらいから古楽器を使おうと言うことで、日本テレマン協会でもやり始めました。
援助もして貰いながら楽器を集めて、できるようにしました。(大変だったが)
1995年にはほとんど集まりました。
2015年から中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂の集会室で演奏会を始めました。
ヴェートーベンのピアノ協奏曲が5曲あるが、それを全部やりたいと言うことで、探して中央公会堂の集会室でやったらすごくいい音がしたんです。
天井が高いのと響きが良くて、大正時代に建ったというのが凄いですね、宮殿のようです。(建て27m 横35m)
演奏者のステージとお客さんが同じ床面。
ヨーロッパでは凄く古楽器が盛んで、館、教会、お城などが有り盛んになります。
中之島ではいい場所が有ったと思っています。
中之島を中心にもう一回新しい文化を上げたいと思います。