美輪明宏(歌手) ・平和への思いを歌に込め(1)
歌手、俳優、演出家など様々な活躍をされている美輪さん、1935年長崎県で生まれました。
料亭やカフェなどを営む裕福な家庭で育ちました。
15歳で歌手を目指し上京、音楽学校に進学します。
しかし実家が破産し、学費が払えず退学を余儀なくされ生活は行き詰まります。
その状況を救ったのが、東京銀座に開店したばかりのシャンソン喫茶「銀巴里」でした。
17歳だった美輪さんはそれからおよそ40年店のステージで、愛と平和をテーマに歌い続けました。
今日は美輪さんの戦後と重なる思い出の地「銀巴里」、そして代表曲「ヨイトマケの唄」の誕生についての話を伺います。
「銀巴里」跡という石碑が建っています。
喫茶店が一軒潰れただけで、その喫茶店の跡に石碑があって記念碑が建つなんてないですよ。
入口から地下に入って行くようになって、壁一面パリの街の景色が見下ろすように描いてあって、中に入ると廊下があって広々としていました。
ソフトドリンクを飲みながらシャンソンを聞くわけです。
普通のお客さんではない方が多かった。
美術、文学、音楽、政治、経済、スポーツなどんな話をしても丁々発止でやっていけるだけの凄い知識をもった文化人が多かった。
有名人も沢山いました。(三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、大江健三郎、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一、遠藤周作、絵描きだと岡本太郎ら 数えきれないほど)
北海道の青年たちが冬に仕事が無いので出稼ぎに来て、なかにはなけなしのお金をはらって来てくれますが、はたしてこのお金に匹敵するだけの歌を歌っているんだろうかと思いました。
それが原点になっています。
「銀巴里」からプロとしての私の歩みが始まりました。
お客さんが悲しみ、苦しみやいろんなものを抱いて来る方もいるので、私が苦しいとか悲しいとかうちひしがれて、内的な問題をそのまま抱えてお店の中をうろうろすると雰囲気が悪くなるので、だから私はプライベートをお客様の前に持ち出してはならないという気概で接します。
お客さんと顔見知りになり色々話をしますが、自分のことは一切しない、聞くだけです。
思い出が山ほどできます、それが私の宝物になっています。
お国訛りには暖かくて愛が有ると思います、
15歳まで長崎にいました。
お風呂屋さんもやっていて番台にいて、当時中流の上の人でも来ますが見ると、着物は皆立派でも裸になると情けない気の毒な身体をしていました。
逆にヨイトマケの若者、労働者は粗末なものを脱ぐが、ギリシャ彫刻のような素晴らしい身体をしていました。
着る物ってなんだろうと思いました。
カフェ(バーに近いような)もやっていましたが、要職にあるような方(政治家、お坊さん、学校の先生など)がお忍びで来る訳です。
酔うほどに正体を現して、ホステスさんのスカートに手を突っ込んだり、頭を突っ込んだりして、頭にビールを掛けられてへらへらしている、一体昼間の顔はなんなの嘘じゃないかと思いました、ですから私の前に権威は通じなくなりました。
人を見る時に、年齢、性別、国籍、肩書き、容姿、一切吹っ飛ばしてしまって見えないものを見る、それは心、目の前にいる人の心が綺麗か汚いか、清らかか、まともか、それだけが問題であって、それを見る癖が付いてしまいました。
小学校の低学年の時に、父兄会が有り皆さんおしゃれしてきていて、遅れてきたお母さんがハッピ姿で臭いも凄かった。
一番できの悪い子のお母さんだった。
休憩時間になって自分の子が鼻を垂らしていて、そのお母さんは自分の口で鼻をすすって窓から吐いたんです。
どうして手拭を使わないのかと思ったら、頭にかぶる商売ものだから手拭いは使えなかったということだった。(後から聞いた話)
可愛くてしょうがないと言う様に、一生懸命自分の子供の身なりなどを整えてやっていました。
気取っていてお互いに着ているものを品定めしているお母さんたちが、凄く卑しく見えました。
汚いお母さんが光明皇后の前に現れた薬師如来の様に見えたんです。
或る時その子がいじめられてお母さんの所に戻って行く時に、一緒に付いて言ったら、貧乏人だからと言っていじめられたというようなことを言ったら、金持ちだからと言って偉いんじゃない、勉強ができると言っても偉くはない、人間で一番偉いのは神様の前できちっと立って真っ直ぐに神様の目を見える、優しくて清らかで、一生懸命働いて、正直でそれが一番偉いんだとだから泣くな、お前は一番偉いんだ、と言いました。
それを聞いた時に、感動しました。
或る屋台でトラブルがあって、やくざが縄張りの件で青年を脅かしていた。
その親分がシャンソンファンで「銀巴里」に来ていて知っていたので、可愛そうなので赦して貰える様に話をしました。
そうしたらその青年が売り物の香水を持って「銀巴里」に来ました。
売り物の香水は受け取りませんでした。
その青年が時々来るようになって、話を聞いたら波乱万丈の人生でした。
満州で終戦後にロシア兵が襲ってきて、父親がエンジニアだったが、その両親が目の前で殺されて、お手伝いの中国人が私の子だと言って助けてくれたそうです。
船に乗せてもらって九州に帰ってきて、廃品回収業のおじいさんの元に引き取られたが、お爺さんが亡くなってしまって、遺体をリヤカーに積んで、焼き場に持って行って、これからどうしようかと考えたそうです。
戦争孤児を引き取る施設があって、そこへ自分から行ったが、中学になると追い出されてしまう。
あらゆることをやって、今大学に行っているとの事であった。
ヘルメットで工事現場にいたので、その若者はエンジニアを目指していたが、なれなかったのかと聞いたら、なれたということだった。
別れて「銀巴里」に向かう途中に単純なメロディーが聞こえてきた。
忘れていた小学校時代の同級生のお母さんのヨイトマケの姿が焼き付いていたのが蘇ってきて、直ぐうちに帰って譜面を書いて詩を書いたら、1~2時間足らずで出来上がってしまいました。
「銀巴里」から帰って、友達呼んで赤飯炊いてお祝いしたら、彼が両手をついて泣きだしました。
自分は生まれてこの方、自分のことでお赤飯を炊いて祝ってくれた人は一人もいなかったということで嬉しいと言って、一生忘れませんと言って、みんな貰い泣きしました。
その時私はこういう歌が出来たといって、披露したら皆良い歌だと言って泣いてくれました。
ビジュアル系の「メケメケ」を辞めて、素顔でワイシャツ一枚で歌う様になったもんだから、商品価値がなくなったということで、仕事が全然来なくなりました。
戦争反対というようなものはだめだと言われました。
或るTV局から電話があり、歌ってほしいということで、歌ったら凄い反響でした。
2万通の手紙が来ました。(労働者、母子家庭などから)
TV局からアンコールが有り、そうしたら5万通の手紙がまた来ました。
社会派と言われていたが、それから受け入れてもらえるようになりました。