2018年9月12日水曜日

宮脇 修(フィギュアメーカー創業者)   ・九十にして夢見る小僧

宮脇 修(フィギュアメーカー創業者)   ・九十にして夢見る小僧
2001年には卵型のチョコレートのおまけ食玩が大ヒット、その作品は国内だけでなく海外でも人気をあつめクールジャパンと呼ばれる新しい日本の文化となっています。
高知県黒潮町の出身、青春時代は15歳で職を求めて旧満州に行って終戦を迎えました。
満州ではB29による空襲や、敗戦国となって外国人から襲撃を受けるなど、日本に引き揚げるまでに、常に命の危険を感じながらの生活だったということです。
その時代を生き抜いたことが、何事にも前向きに取り組める原点になったと言います。
日本に引き揚げた後は、職が安定せず36歳で起業しました。
一代で時代の最先端のフィギュアメーカーを築きあげた原動力は、子供のような純粋な気持ちを忘れず、夢を描き続けることだと話しています。
90歳になったいまも、新しいことに取り組む宮脇さんに伺います。

たえず新しい試み、一つの夢を次々に果たしていきたいと思います。
冒険する心、自分が90歳になって餓鬼(子供)になったと思います。
6年生の時に父親が病気になり、14,5歳で朝3時~7時ごろまで漁業の網上げをやってそれから学校に行きました。
帰ってくると網の準備などをしていました。(今までで一番仕事をした時代だった)
性格はガキ大将で悪かったと思います。
楽しみは魚、獲物を取った時の感動でした。
満鉄は中国の東北地方にあり、そこは給料が良かったので、満鉄に行こうと思いました。
少年雑誌で見たゴビの砂漠で馬族の大将をやっている日本人がおり、それに物凄くあこがれました。
この二つの理由で満鉄に就職しました。

満州製鉄に出入りする単純な記録係をしました。
一番怖かったのがB29が重慶から100機位飛んできて、1トン爆弾を落とすわけです。
二回目の時には直撃を受けて防空壕の近くに1トン爆弾が20個位落ちました。
首が飛んだのを見たり、先輩の背中に火が付いてそれを消したりしました。
ただ恐怖だけでした。
ロシア軍の侵攻、国民軍の侵攻が有り、略奪が有りました。
日本人であるという誇りだけは持っていたので、生きなければいけないという思いでした。
日本に帰れるかどうかが心配でした。
引き揚げるまでは給料は貰えました。(ソ連の荷物運びの手伝いをやらされました)
ソ連が略奪したものを持って帰る作業の手伝いだった、というこは後で知る訳ですが。
先輩たちは抑留され連れて行かれました。

満州から日本に戻り職を転々(30位の職)として、昭和40年ごろ家族もできて、30代半ばで当時流行していたプラモデル店の開業を思い立つ。
大阪に広さ5平方メートルの小さな店を始め、「海洋堂」という名前にしました。
子供達を楽しませるアイデアを次々次に実現させてゆく。
子供達が喜ぶことが商売の第一条件です。
たえず新しい夢を追ってお金をつぎ込むので、経営という話にはならないわけです。
2001年には卵型のチョコレートの食玩が大ヒットする。
現在では年商25億円となる。
原型師の作った作品に僕は全部名前を入れた、それが原型師の始まりです。
ものつくりは不器用でもできる、待つという事、それをするといいものが出来て来る。
昔はお寺に泊って食べさせて、泊った人に絵を描いてもらったりして、日本全国のお寺の襖絵などになっているので、それを真似てフィギュア作りにやって見ようと思って、全国からものつくりの子が来て何日か泊って出て行く。

信頼関係が一番で、評価されると言う事、みんなで喜べるという形になる。
もう会社は大きくしなくていいと思っている。
有る金で上手くやりくりしようと思うと夢が小さくなってしまう。
90になって人生楽しい、反対する人がいないから。
これからどれだけ生きられるか判らないが、生きていたら何かしないと申し訳ない。
90歳になると明日死ぬかも知れないが、あれしようこれしようと思って夢を持っていたら死も怖くは無い、そう思う。
生きている限りは、特に歳を取ったら、それを世の中の人達に自分の知識なり、経験なりを還元してゆく、一つも残さないようにやっていけたら最高だと思う。