保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう第24回 東京裁判
極東国際軍事裁判 極東国際軍事裁判所条例をマッカーサーが昭和21年1月19日にだす。
それに基づいて開かれた。
昭和21年5月3日から始まる、判決の言い渡しが昭和23年11月12日
市ヶ谷の陸軍士官学校の建物で開かれた。
天皇を訴追しないことが前提に開かれた。
そうしたした背景は推測であるが
①日本を統治するのに日本国民を反米的にすることなく、マッカーサーは統治手腕は立派だという歴史的評価を得たいというので、天皇という権威を利用しないと日本の統治は難しいと判断した。
②戦争責任、天皇の権力は軍に一方的に利用されたと言う判断をした様に思う。
ドイツ ニュールンベルグ栽判 ナチス党国家社会主義労働者党
昭和20年11月20日から昭和21年10月1日まで開かれる。
20世紀にはじめて行われた裁判。(戦争に勝った国が戦争に負けた国の責任を問う)
人道に対する罪、残虐行為等の概念を載せて進めた、連合国の文明の裁判。
戦敗国から見ると、全く知らない事が東京裁判では一杯明らかになってくる、情報公開の役割も果たした。
検事団団長 米国ジョセフ・キーナン検事 11カ国が参加
①平和に対する罪・・・・・・・・・・・・・・A級
②殺人、戦時放棄に対する罪・・・・・B級
③人道に対する罪・・・・・・・・・・・・・・C級 3つの類に分類(罪の重さではない)
東京裁判ではA,Bが主体
28人が被告席に座る。(東条英機ほか)
15人が陸軍 海軍が3人 外交官5人 官僚5人
昭和21年4月29日 起訴状を手渡す。
(忘れぬなという事でアメリカではよく日付けを意識して行う 天皇誕生日)
昭和3年~20年9月2日まで共同謀議を持って侵略戦争を始めたというのが、検事側の骨格になっているが、日本には当てはまらない、次々に為政者が変わるので無理がある。
陸軍軍人が中心になって戦争に向かったというのが、この裁判の特徴。
日本の検事側の証人に立った人、田中隆吉、木戸孝一など400人が立つが、言論弾圧、政府は立法府こう抑圧したとか表現するが、国民が知らない事実がいっぱいあった。
大本営発表、政府発表が虚偽、捏造だったことが明らかになってゆく。
国民にとって戦争を客観的に見るという事、反省、批判、が可なりに肉付けされてゆく。
弁護側 米国の弁護士もつく。 (公平性)
日本の指導者の責任回避の姿などを見ることになる。
インドのパル判事 日本の立場を全面的に擁護しているのではなく、西欧の植民地主義を批判している。
西欧の植民地主義が日本の戦争の背後にもある、貴方たちは裁けるのか、日本が戦争を起こしたのもやむを得ない、という様な論陣を張る。
インド、フィリピンの受けとめ方は連合国とは違うという感じがする。
パルの全面的な理解を日本人はしなくなったのが、不幸なことであったと思う。
判決の言い渡しが昭和23年11月12日
11月4日から読み渡しが始まり、中断があり8日から再開、12日が最終日。
オーストラリアのウェブ裁判長が判決の言い渡しを行う。
刑の執行が昭和23年12月23日(現天皇の誕生日)
昭和23年12月24日 岸信介 児玉誉士夫などA級戦犯19人が釈放される。
B,C級裁判 有名なのは バターン死の行進での 本間雅晴 、シンガポール華僑粛清事件など山下奉文 絞首刑になっている。
B,C級裁判はそれぞれの国の法律で裁かれたが、復讐的な意味合いは有った様に思う。
死刑の数は1000人ぐらいいたと思う。(起訴は5700人位)
この国が戦前から戦後に移る時の線引きになると思う、東京裁判で示されたデータ、記録、文章、により具体的に評価できる。
人道に対する罪、平和に対する罪を日本は責任を自覚しなければいけない、20世紀後半裁いたアメリカなどに対して、貴方たちは私達を裁いたけれど、貴方たちも私たちと同じ事をやったんじゃないかと、国際社会に対して発言する権利を持ったと思う。
その権利を余り使わなかったことは残念だと思う。
昭和24年11月3日 湯川秀樹氏がノーベル賞受賞決定。
昭和25年1月19日 田中絹代さんがアメリカから帰国。