2016年1月9日土曜日

上西 勇(災害モニュメント記録活動)  ・慰霊碑は次の世代へのメッセージ

上西 勇(災害モニュメントの記録活動を続けている方)  ・慰霊碑は次の世代へのメッセージ
1995年1月17日の阪神淡路大震災で 当時95歳の父親を亡くした上西さんの話です。
父親の死をきっかけに神戸阪神間の慰霊碑やモニュメントを自転車で巡り、記録を加えてゆきました。
全国各地の地震や津波、台風など自然災害の様々な碑も訪ねるようになりました。
これまでに1100か所のモニュメントをめぐり碑文を書き写し、11冊の冊子にまとめています。
何故慰霊碑を訪ねるのか、碑文は何を語りかけているのか伺いました。

「忘れるな 三陸沿岸 大津波 惨禍を語る路傍の石碑」 は改訂版となっている。
この改訂版は306ページになります。
きっかけは父の死、「がんばろう神戸」が モニュメントの冊子を作ったのを入手して、慰霊碑を訪ねました。
忘れない為に冊子を作るようになりました。
大震災の時は父は別棟におり、大丈夫だったが翌日18日に液化天然ガスの貯蔵タンクに亀裂が入っているという放送があり、爆発の恐れありとの事だった。
父にとっては家を離れることは死に等しい事だと判断したが、逃げてゆきました。
国道はごった返しており、その後小学校に辿りついたが状況が悪く甲南大学に行きました。
一夜明かしたが、寒気のための温度変化でうわごとを言いだして、危ないと感じた。
避難勧告が解除されて家に戻ることになる。
22日には体が硬直していて、医者を呼んだが駄目だった。(震災関連死と市から認定された)
東遊園地の公園にある慰霊碑に名前は刻まれた。

私は旧逓信省で14歳で入り通信士になり、1987年に退職後、自転車旅行を趣味にして旅をするようになりました。
今度は阪神淡路大震災の慰霊碑を自転車で廻るようになりました。
皆無念な思いをしているであろうと御慰めしようと廻り出しました。
慰霊碑を建てるには皆さんは色々苦労していると思う。
慰霊碑は言葉はありませんが、皆さん私たちと同じような目に遭わないでくださいという、死者の願い、慰霊碑を建てた人達は災害について気を付けてくださいと言う意味が込められている、という風に解釈するようになりました。
調べていこうという機運になりました。
昭和9年 室戸台風に遭い、女性の死体を見る体験もしました。
昭和13年 住吉川氾濫、阪神大水害も小学校5年生で体験しました。

2000年、2004年にモニュメント集を纏める。
全国各地の災害慰霊碑を廻る、最初は紀伊半島の突端です。
1999年 岩手県釜石、宮古市等に行きました。
「ここから下に家を建てるな」という碑が山肌にあった。
まずは逃げることが基本だということは、大なり小なり警鐘の文章が書かれています。
碑の場所はインターネットが頼りですが、最終的には行って見ないと判らない。
折りたたみの自転車を持って最寄りの駅まで行きます。
土地の人に聞いたりもしています、たまたま尋ねた人が碑を建てたゆかりの人だったりすることもあり、いろんな出会いがあります。
2007年伊勢志摩紀伊半島の津波の慰霊碑、2008年には三陸沿岸津波の慰霊碑 (300か所)

大地震の後には津波の用心等、被害の状況など碑の裏面に書いてあります。
大船渡市綾里地区 被害戸数298戸 溺死者1350名 38mの高さを記録・・・・抱いて慟哭するものあり。(明治三陸大津波伝承)
2011年東日本大震災 歩いたところでもあり、TVを見てしばらく実感がなかった。
災害は一つの歴史であり、歴史を直視しなくてはいけない。
碑の訴えている内容を理解して頭に入れて、思いだして行動に移る様にしなければいけない。
関東大震災 神奈川県編 根府川駅周辺では地滑り、土石流で列車が駅ごと海に転落、集落の亡くなった人の名、年齢が記載されている。(300名位)
工場でも160名が亡くなり、従業員への感謝の意味を込めて建てられている。
その他児童が各地学校で亡くなっている。
横浜市裁判所では裁判長以下全員が亡くなっている。
木々があって、水道管が破裂して水たまりができて火災から逃れられたと言う記録の碑もある。

災害があってたくさんの人が亡くなって、ちゃんと覚えて災害に備えてほしいと、遺言だと思っています。