内田良子(心理カウンセラー・子ども相談室「モモの部屋」主宰) ・親子に寄り添う癒やしの声
1942年韓国慶尚南道生まれ 大学卒業後、40年以上にわたって都内の民間病院の心理室や保健所で不登校や引きこもり、乳幼児の子育ての悩みなどの相談などに取り組んできた心理カウンセラーです。
長年NHKラジオの子供と教育電話相談、子供の心相談のアドバイザーもされました。
平成12年からは自宅でモモの部屋という子供相談室を開き、子供や親の声に耳を傾けています。
全国各地で開かれる不登校や子育てに関する講演会や相談会の講師も務めています。
保健所の乳幼児の子育て相談 1週間に3回、モモの部屋でグループ会や個人相談を受けたりしていて、月~土曜日までしています。
人を理解する意味では私にとって心の栄養の場なんです。
1973年からスタート。
民間の病院でぜんそく、アトピーなどの心理的なサポートとして入りました。
大学では心理学を専攻、当時は臨床心理は傍系で、実験心理学が中心でした。
ネズミなどを飼って、行動観察から人間のいろんなことを推測する。
私は臨床に興味がありました。
母親子供の話を聞いて、発作が起きない様にどうしたらいいかという様な事にシフトして、子供と親御さんの相談に乗るという風に仕事の働き方を変えました。
子供が具合が悪くなる時に学校が原因しているみたいだと、思えるようになった。
子供を取り巻く環境をしっかり探り当てることが大事だと心掛けるようになりました。
他のところからの要請も来るようになるが、収益をあげない部屋だったので、病院の経営が悪化すると心理室へのしわ寄せがありました。
病院側と話し合ったり、心理室を存続してほしいという嘆願書等を展開してもらい残ることが出来ました。
当時臨床心理士、当時は無かった。
カウンセリングの方法論、アメリカのロジャースの考え方が日本の業界には一般的に採用されて人気がありました。
相手の話を最後まで聞きましょうという様な方法論です。
相談に来る方は答えを持っていて、悩みを雪だるまの様になっている。
話すことで藪を破っていって自分で話しているうちに気が付き、それをお手伝いする、話の腰を折らない、しっかり聞く。
学校の時間割に合わせて具合が悪くなっている、症状が出る日が決まっている。
子供達は学校の事を聞いてくれたのは初めてだと言ってくれて、登校拒否は学校に対して身体が拒否反応を示している、学校アレルギーが多かった。
いろんな方法に気がついて組み立てていきました。
乳幼児の心理相談員を募集していたが、そこでも仕事が出来るようになり、1973年から今日に至るまでやっていて今年で43年になります。
2歳半で終戦を迎えて韓国から終戦の年の10月に引き揚げてきました。
父の郷里が長野県諏訪郡本郷村でしたので、家族6人の生活が始まりました。
父は国語の教員で、高校の教員になって赴任して、母と子供達の生活になりました。
食糧難で野菜は母が何とか作ったりしたが、米は無くて農協にいってふすま、精米したものを分けてもらったりしました。
小学生のころは着物は洋服で言葉も標準語だったので「東京っぺ」と言われていじめられて、学校に行くのが嫌でたまらなくて頭が痛い、お腹が痛いと言っていました。
自分で身体の弱い子だとおもっていたが、登校拒否だったのかもしれないと、病院で仕事をするようになって後から思いました。
20歳までは生きないだろうと母は思っていたようです。
栄養補給のために卵、かいこのさなぎ、イナゴを食べさせられました、今では大嫌いです。
当時1年のうちの1/3以上は学校を休んでいた様に思います。
兄もいじめに遭い、帰り道雪の中に埋められたりしました。
母がPTA総会の時に指導してほしいと校長先生に直訴するが、古くからある集団に新しいものが入ってくると鶏は突っつき散らすものだと言ったので、母が怒って私は子供を小学校に入れたつもりだけれども、ここは鶏小屋かと怒りました。
母が守ってくれるという安心感の中で育ちました。
1998年「モモの部屋」を立ち上げる。
病院の退職が2000年なので辞める準備をしなくてはという時期に、相談に行ける場所を続けてほしいと言われて「モモの部屋」を作ることにしました。
人の話を聞く事を上手に聞ける様な場を作りたいと子ども相談室「モモの部屋」を作りました。
「人は光を見るために目があり、音を聞くために耳があると同じように、人は時間を感じ取る為に心というものがある」(ミヒャエル・エンデ ドイツの児童文学者 「モモ」という作品の中の一節)
ひと月に1回各テーマ、父親と共に登校拒否を語る会、引きこもりを理解する会、食の悩みを理解する会など家族が家庭で理解すると子供の苦しみ、葛藤も半減するので9つのテーマでやっている。
民間病院に務めていたころもグループ相談会をやっていましたが、それをもうちょっと体制を整えてやるようにしました。
ある人から電話が来て、脳梗塞で倒れてリハリビの最中で、自分が喋っていることをその瞬間で忘れてしまうので自分が喋っている事が筋道が立っているのか、認知症みたいに判らなくなっているのか判別してほしいという事だった。
すじが通って大丈夫だというと、子供達がこんな風に言ったという事で、子供達が登校拒否をした時は身体を張って守ってくれた、これからは私たちが身をていしてお母さんを守るから安心してほしいと、言ってくれて、娘たちから言ってもらって今が一番幸せですと言ってくれて、一時期寝たきりだったが、娘たちのケアに依ってそれに答えるには自分もリハビリを一生懸命やろうという事で杖を付いて歩けるようになったとの事です。
家出した子が暫らく家に来ていた時があるが、算数、絵を描いたり楽しそうにやっていたが、計算をやって掛け算はこうやるのよ、といったらピタッと辞めてしまった。
正しい答えを求めるのではなくただ楽しんでやっていたことであり、指摘したが良かれと思う事でいいことはないと教えられました。
その子はしょっぱくてまずい味噌汁が食べたいという、即ち家に帰りたいというメッセージであり、家に電話をしてあげて家に帰って行った。
夫は内田雄造 都市計画、大学で教鞭取りながら各地の様々な街作りに参加、アドバイスをして来た。
二人で子育てをしてきました。
上の子が中学に行った時に管理教育に疑問を持って退学届を出して学校に行かなくなって、長期欠席という事で除籍になり中学卒業にはならなかった。
信頼のおける他の方に教えてもらうという事で兄弟2人ともホームエデュケーションになりました。
下は小学校の1年生の時に学校の先生は教科書を持って黒板に字を書くお巡りさん、だと言ってあれはいけませんこれはいけませんと私にはあわないといって学校には行かなくなってしまった。
子供達は今自分のやりたいことを身の丈に合わせてやっているのでそれぞれいい人生をやっていると思います。
私はいろんな子供達の第二のお母さん役をやってきたと思います、やりがいがあります。
子育ては我が家にやってきた子供と一緒に暮らす事、そのものが子育てで特別なことをやる必要がない。
子供はできないことが出来るようになり判らないことが判るようになるので、ちょっと気長に待っていれば子供は自分の力で育ってゆくので、子供の育つ力を信頼していただきたい。
子供は信頼していれば、ほんとうに健やかに育ちます。
困っている時に親が理解してあげる事が子供にとっては親の最大の愛情なんです。