室﨑益輝(防災学者) ・心をつないで命を守る
71歳 神戸市にある「人と防災未来センター」を運営する公益財団法人の副理事長を務めています。
この施設では 21年前の阪神淡路大震災の被害の模様をつたえると同時に、地震等の災害に人はどう向き合ったらいいのかを考えるための資料を展示しています。
室崎さんは建築家を志していた学生時代、旅館の火災現場を見て防災の道へと方向転換しました。
神戸大学教授の時に阪神淡路大震災に遭遇、震災直後から被災地の調査と支援に取り組みました。
阪神淡路大震災でそれまでの研究のあり方を根本から見直したと言います。
大きな自然が小さな人間へ生き方を問うているのが災害と語る室崎さん、災害から命を守ることの研究に50年近く取り組んでいる室崎さんに伺いました。
あのときあの場にいた人でなければ、感じられないことはたくさんありますが、いなかった人につたえるということは難しいことだと思わないといけない。
どういう形で伝えるかが難しい。
①自然の大きさに対して人間がいかにちっぽけか、を理解しないといけない。(人間のおごり)
②人間の素晴らしさ、再び生きていく力を得る。(支え、助け合い)
③どうして起きたのか、社会の側にも弱さがあったのではないか。(自然破壊、高齢化等、人間の愚かさ)
④災害の残酷さ、悲しさをきちっと伝える。(悲しさを理解し起こさない様に出来ることをしっかりする、減災)
大災害は人間が抑え込むのではなく、少しでも被害を少なくする。(減災の考え方)
人々は立ち上がり、いかなる困難に出会っても生きることを諦めない人間本来の強さがある。
復興に「ばね」が働く。
①気概のばね(何くそという思い)
②連帯のばね(助け合い、きずななどが働く)
③反省のばね(もっとこういう社会を作ろう 目標に向かって進む)
④事業のばね(再建に向かい、資源、資材が集まってくる)
4つのばねが働くことによって前に進むと思う。
世界中の復興の歴史を見ると失敗したことがない(成功の程度の差はあるが)、それは「ばね」が働いているから。
阪神淡路大震災がなければ大学の中に閉じこもって論文を書いて、論文で評価される研究者になっていたと思う。
現場に目をやり、市民が何を求めているか、現場で教えられる。
1968年有馬温泉で起きた旅館の大規模な火災に遭遇、京都大学大学院で学んでいた室崎さんはその火災現場を訪れ衝撃を受ける。
行って旅館の間取り等を見ると、設計が悪かったと感じる。
複雑な曲がり角でみんな亡くなっていた。
デザインとしては面白いが、複雑な廊下でつながっている。(逃げ道がない)
建築基準法、消防法に書いてある法律で十分だと言われて、ギャップを感じました。
こういうことをもっと研究しないといけないと思っていたが、1970年地下鉄工事で大爆発、2年後に千日デパート火災(100名以上が亡くなる)、同年北陸でトンネルで列車火災でたくさん亡くなる。
1995年1月17日阪神淡路大震災、防災に関する国際会議の幹事として大阪にいました。
被災地に入ることが出来たのは翌日でした。
大学の生徒たちがどうなっているのかが心配でした。
タクシーではいけなくなって歩いて行ったが、瓦礫の山の光景を見て、なんででこれほどの瓦礫になったのか理解できなかった。
夕方大学に着いたが、学生は場所がなく避難所ではなく大学に集まってきていた。
呆然と立っていて学生たちを元気にさせるために、実家に帰るように言う。
学生の安否確認は時間がかかった。(1カ月もかかる学生もいた)
多くの学生たちもいてもたってもいられず実家から戻ってきた。
被災者の声を残す、建物の状況など調査ボランティアに学生と一緒に出ようという事で一緒に歩きまわった。
被害を受けた50万戸調査 近畿圏の大学の建築科学生3000人が集まり、50万棟の被害調査をすることができて、助けられる側から助ける側に回って学生も元気になった。
火災原因の調査、建物の被害調査、避難状況調査が出来た。
論文は通常被害を纏めて法則性を明らかにして、1~2年かけて学会誌に発表するが、1年後、2年後に論文を書いても何の意味もない。
この人達が求めているのは、明日にでも調査結果、提案がほしいと思っているので、論文を書く前に勤労会館のホールを借りて、火災調査などの報告会をやる事になる。(超満員になる)
調査票に書き入れたある人が、被災地で困っている人が14.3% この0.1が私ですかといわれた。(数字では私の気持ちは現れていないということでした。)
一人ひとりを大切にしないといけないと思った。
次の災害に向けてどうするかが我々の仕事ですが、今の災害をどうするかを我々が課せられているので、研究のあり方を根底から変えないといけないという事で、直ぐに被災者に情報を返す、一人一人の声を聞くということだと思います。
最初段階、専門家としては研究等で被害状況は解っていたが、専門家の知識をどれだけ居住者に伝えていたかというと、不十分だったと思う。
行政から頼まれて行政に報告するが、行政に向いていて市民に対しては顔を向けていなかったと思う。
遺族への説明責任があり、遺族と向き合わないといけないと思った。
被災者聞き語り調査で6000人の遺族と話をして記録を作ろうしたが、300人の記録しか作れなかったが、遺族と向き合っていかないといけないと思った。
家族を亡くした悲しみがいかに深いか、何人もの人が泣きだして、それを聞いて私も涙しました。
現場を見る、一人ひとりの人をちゃんと見るようにする、これを若い人たちに伝えていきたい、それが私の役割だと思っています。
東日本大震災、自然と人間が共存する事が、豊かな暮らしにつながると思っていたが、あまりにも自然が凶暴であった。
巨大な堤防を作るという局面に追い込まれたが、それは自然と人間の分断、それでいいのかとの思いもあるが難しい問題です。
自然の豊かさを享受する事と自然の厳しさを被ることを防ぐ事、どう両立させるかを見つけ出さないといけないが、とても大きな問題です。
どう対応するか、思いをぶつけあい、相手の思いも理解しながらというプロセスが重要です。
阪神大震災の時に多くの人から助けてもらった、3カ月で延べ100万人が駆けつけて貰って、助け合うことが重要で、次の被災地に自分たちが届けることだと思う。
支援の数珠つなぎだと思っている。
台湾での取り組みが、「中越」に来ますし、又次にという風に支援の輪が広がってゆき、災害ボランティアセンターの仕組みが出来、色々な組織が出来、そのネットワークが出来、支援の数珠つなぎの土台を作って行っている。
東日本大震災ではもっとボランティアが行っていいと思う。
どうしてかというと2つ理由がある。
①若い人は仕事等忙しくて、行けない。
②東北は神戸から遠いいので旅費がかかり、神戸にいて募金活動などをすることになる。
行けない人は旅費を出したり、サポートするとか、もっと日本は寄付文化、ボランティア文化を育てていかないといけない。
ボランティアの帰りの旅費を出してほしいと呼び掛けている。(社会が助ける仕組み)
復興の直後に2つの事をしないといけないと思った。
①立て直し。(元に戻す)
②世直し、(社会の矛盾を直す。)
20年間で立て直しはどうにかできてきたが、世直しの課題、社会をどう作ってゆくのか。
人間復興、社会復興 両輪としてやっていかなくてはいけない。
与えられた宿題をどう作ってゆくかはとても大切なことです。