篠原勝之(ゲージツ家・KUMA) ・人生行きあたりばったり(2)
山梨県北杜市にアトリエを構えて20年になる。 北杜市が3/4過ごします。
4時過ぎには野鳥の声で目をさまします。
そして抹茶をたてます。 独茶(ひとりちゃ)、自分をもてなす。
竹細工もやるが、鉄の製作とは同じ思いです、手を動かすのが好きです。
色々作品を作るのに物々交換でやっていたりしてきました。(金とは縁のない経済活動)
深沢さんが味噌を作って売っていて、飽きたので味噌のかまどを壊すために呼ばれていった。
それで良い仕事をするので深沢さんに気にいられた。
17歳で家出をして、東京に来る。(中学の時から家出を考えていた)
今の家出と違い、家出は決死の覚悟だった。
母親には相談し金を貯めた。
とにかく父親から逃げたかった。
家出したきり、父親とは36年間会っていなくて、植物人間になっていた。
改めて会った時に、写真を取ろうとしてフラッシュをたいたら瞬間ガバっと起きて怖くて逃げだしたが、後で元に戻ったが、後になってなんで暴力を振るったのか、聞きたかった。(会話はできなかったが)
父は戦争に行って悲惨な思いをして来たことで、心の一部が壊れたのかもしれない。
父は戦争の事等はなにも言わなかった、それはいかんと思ったが。
怖いからいつも逃げる事ばかり考えていた。
東京に行けば何とかなると思った。
生活は大変だったけれども、父から怒られないというだけで毎日が嬉しかった。
或るときこのまんま食わないで消えてゆくのも悪くはないと思ったが、これも苦しい。
そうこうするうちに、別な想像をするようになり、鉛筆で絵を描いたりしているうちに、絵本作家になりたいと思ったりしたが、絵が暗いといわれ、出版社から断られる。
絵本を自費出版して売るが、駄目だった。
年金生活者だが、もう一度生きる力を見せる、と言う思いがある。
20代後半から30代前半 喧嘩師と言われた時代があった。(気持ちがささくれている時)
かつあげにあってしまって、叩かれた揚句にお金を持って行かれてしまうので、ちょっと暴れてみようかと思ったら勝ってしまって、小突かれたら小突き返したりしていた。
自分が普通の社会に戻れない様にしてしまえと思って23歳の頃、頭を剃って退路を断って、それ以来こうなってしまっている。
アングラ(30代)を経てゲージツ家(40代)めざし、妻にさよならされて、身勝手、ひとでなしと周りからののしられた。
40代になって鉄の彫刻家と言われるようになった。
建物を壊すとスクラップがいっぱい出てきて、鉄を集めてそれで始めた。
TVに出る事によって企画も持ち込んだ。
金なんてといいながら、そういうところは計算高くて、それがまたバチが当たる。
借金しか残らなかったが、今は少しは残るようにした。
3m×2m位のおおきさの鉄とガラスをコラボレーションする様なものを昨年末に作った。
チャンスがあれば鉄は当分やりたいと思う。
アフリカに行った時に子供達と土を練って彫刻を作って、それが風化して土に戻ってゆくと思うが、200人位の子供らと作った。
サインしろと言ったら子供達は指を差し込みそれがサインだというが、その何百の穴が夕日で動いている様で良かった。
ひと夏の土の彫刻もいいのかなあと思う。
思い付きが生きている証拠だと思う。