2016年1月7日木曜日

名知仁子(NPO法人 代表)     ・ミャンマーの医療支援に取り組む

名知仁子(NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会代表)
・ミャンマーの医療支援に取り組む

1963年新潟県生まれ埼玉県育ち 大学病院の勤務医として働いた後 、2002年国境なき医師団に加わり タイ、ミャンマーなどの難民緊急医療活動などに携わってきました。
名知さんを国際医療活動に進めさせたのは、人間として人生をどう生きるか悩んでいたときに出会ったマザー・テレサの言葉でした。
「もしあなたの愛を誰かに与えたら、それは貴方を豊かにする」という言葉でした。
そして2012年NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会を立ち上げました。

NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会
立ちあげる時に支援者と共に決めた名前です。
ミャンマーの人口は約5200万人 日本の半分位です。
「人生はジグソーパズルの様なもの、位置が決まれば自分もそのピースになれる。
自分が荷なえないピースは誰かにお願いする。」
医師になったのは26歳、28歳になった時にいろんな職種の方のところに行き初めて、その人たちが手をつなぐことによって、良い社会にできれば、そうでない社会にもなり、自分の立ち位置さえしっかっり決めれば、ジグソーパズルの1片となり、理想、夢を持って生きる人達と手をつなげば世界は変わってくる。
自分も豊かになり、他の方も豊かに出来る。

いろんな本を読み始めて、31歳の時にマザー・テレサの本に出会って、「もしあなたの愛を誰かに与えたら、それは貴方を豊かにする」という言葉にであって衝撃を受けました。
そういう社会に医師として働きたいと思いました。
マザー・テレサは一人インドに行って、道路で虫けらの様な人を抱きかかえて、「貴方は生きていて
良かったの」と言いました。
医師としてどう働けばいいかと思った時に、国際医療に行こうと思いました。
たまたまTVで記者会見をやっていたものを母が見ていてそれを教えてくれました。
大学病院は病気は診れるかもしれないが人間は観れないと思っていた。
今の日本に医療は最先端で凄いと思うが、医者はどんなに知識、スキルがあっても人とどうやって向き合ってゆくかというのが、根底にあっての治療かなと思います。
疑問をずーっと持っていました。
2002年ボランティア医師として登録する。

タイとミャンマーとの間の難民キャンプで3万5000人いて、聴診器一本で診ました。
医者としての原点に戻りました。
腱反射も聴診器の縁で叩いてやりました。
学校は無くて、そこで結婚して亡くなってゆく、1,2,3も言えなくて、それを体重計に乗ると体重が判るようになり、脈の取り方も教えて、聴診器の当て方も教える。
医師がいないので、医療技術も教えないといけない。
国境なき医師団は私を含めて医者は5人位です。
ヨルダンで中東のイラク戦争で逃れてきたクルド人、イラク人を見る難民キャンプで働かせてもらいました。
緊急援助団体だったので、テントに来た人たちを診療しますが、水が無かったので辛かったです。
2008年にミャンマーで大きなサイクロンがあり、活動に参加しました。
物資をヤンゴンから現場に送ってもらって、分配しますが、必要な薬は無くて、申し訳有りませんと言いましたが、不甲斐なかったです。

医療は大きく分けて、巡回診療と保健衛生の啓蒙活動です。
巡回診療は村を自分たちで廻って病気を診させてて頂く。
もうひとつは手洗い励行(食事の前、トイレの後、食べものを作る前等)、飲み水の管理、(ボウフラがわかない様にカメに蓋をする等) 知識を得ることがたいせつです。
赤ちゃんが生まれるのが、1000人居たとして一年経って77人(日本は2~3人)が亡くなり、5年間生きられないのが52人(日本は1人位)。
大きな要因は出産時の事と栄養不良です。
食べものがない、食料をどうやって健康に育つための食べ方をしているかどうか、バランス良く身体に入らないと育たない。
食べるものは米だけだったりするので、偏った食事だと病気になる。

2カ月に一回しか巡回診療にいけないので、教育を受けることで健康状態が良くなるシステムを作りたい。
家庭菜園の様なものを作って、ビタミンを摂取できるように有機栽培の指導をしています。
孤児院の持っている農地が40エーカー有、米しか作っていなくて、池を作って魚を食べるとか、発展させて販売まで出来るようにしたい、雇用まで出来れば、さらに食生活も良くなる。
アヒルを飼うと、そのうち卵が生まれ、売れるし卵が自分たちも食べれて、2カ月に一回は肉も食べれるようになり、バランスの良い食事になり健康になってゆく。
ミャンマーは134の種族がいて、各々が自分独自の言葉を持っている。
通訳が必要で、一緒に巡回しなければいけなくて複雑な要素を持っている。
カレン語が判って、農業の知識、その土地が判る人でないと思っている事が出来ないので、たまたま栃木県にアジア学院がありそこに相談しました、そこは発展途上国の農業のリーダーと言われる人達、オーガニックの農業を根底から教える、そういう使命を持っていて、家畜の飼育も教えている。
ミャンマーで出来るのかを問い合わせたら、できると言われてやろうと思った。
そこの卒業生にその指導をしてもらった。

やることはいっぱいあるが、家族ごとの生活が地域を作ってゆく、地域が活性化すると、他の地域も真似したいという事になる。
電気がないと連絡の方法がないので、金曜日にミーティングを行うが、ほんとうに問題は何か、彼等にとって本当に必要なのか等、確かめます。
急病人が出た時の搬送の仕方がないので、そのステムを作ろうと提案します。
例えば、500世帯でお金を集めて、村で管理して急病人が出たときには責任者が判断して、そのお金を使う様にする。
連絡網がないので、いいシステムを村を廻って地域全体にいい情報を入れて、地域全体のレベルアップしてゆく、そういう事をしています。
私たちの団体に必要なのはお金とマンパワーです。
スーチーさん自身が日本に来て、京都大学に学んだり、早稲田に来たりしているので近しいと思います。

人生はデコレーションケーキ 土台は決まっているがクリームは自分次第、自分で選べる、いろんなことができる。
タイミングに依って変えてもいい、楽しい人生が待っている可能性もあると思います。
でもアンテナは張っておく必要がある、いつのタイミングで変えるのかの判断が必要。

45歳の時に進行ガンの乳がんになりましたが、もっとつらかったのは、37歳の時に副交感神経縮症になって全く下半身が動かなくてずーっとベッドに寝ていて、動くのが頭と両手だけだった。
大学を辞めて次の面談をしようと思って辞めた数日後に症状が出てきて、寝返りができない様な状態だった。
足が紫色になり足を切断するようかと思った、第二の人生をやろうとしていたときに、なんで私なのか、どうしていまなのだろうかという事に対して回答がない、4カ月ぐらいそんな感じでした。
神様は両手と頭で何をしなさいと言っているのだろうかと思い、又本を読み始めました。
そのうちにどういうわけか良くなり始めました。
私の人生に意味があるはずだと思いました。
問題だと思うからこそ問題であって、問題ではないと思うと問題ではなくなることがいっぱいあるなあと思いました。
宗教の信仰はありませんが、導く人はあると思います。

国際医療は大変だと皆さんが言いますが確かに大変です、98%辛いです、残りの2%が98%を超すほどの喜びを与えてくれます。
感謝、お互いの気持ちが通じたりすること、たった一つの言葉が物凄いです。
病気で3時間歩いてきて、待っていて薬がなくて診れませんと言われても、「有難う」と言われる、喜びを感じます、すごいと思う。
一つ一つがつながることによって、社会ができる、それが村、国単位であり、繋がって命を育むという事に感じて、それを助けるという事に感じてくれて、お互いが嬉しい。
ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会では薬一つ渡す時も「日本のみんなが応援しています」と必ず言います。