三浦律子(主婦) ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」
NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、三浦さんは優秀賞3点のうちの一つに選ばれました。 三浦さんの障害は内部障害で腎臓が一つしかありません。 幼いころ医師に10歳まで生きられないと宣告されました。 さらに言語障害もあり小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できなかったと言います。 三浦さんは現在43歳、余命宣告をされた10歳を大きく越え、2人の子どもの母になりました。
長崎県佐世保市出身。 郡上は夫の故郷でして、郡上の豊かな自然、草花や蝶を追いかけて暮らしています。 27歳の時にこちらに来ました。
「生きた時間を生きる」
「私は43歳、身長166cm、体重58kg物理的に外見でかけているものはなく、白髪のない長髪で一見とても健康な健常者です。 私の障害は内部障害、腎臓が一つしかない点です。 小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できない言語障害を抱えていました。」
ほとんど普通の人として暮らしています。 私は4歳の時に体内に腫瘍が見つかりました。その腫瘍が腎臓に癒着してしまいました。 手術をして腫瘍と一緒に腎臓も摘出しました。 摘出した腫瘍の中に髪の毛とか小さな歯のようなものが入っていて、人間を形成できるであろうというものが沢山入っていた、おそらくバニシングツイン(双子のうちの片方が妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見える現象)という見解でした。 母親の胎内で消えてしまうらしいが、たまたま私は内包して何かの拍子に急に成長しだしたのではないかという事でした。 10歳までは生きられないだろうと言われました。 身体がパンパンにむくんだりして大変でした。
ちゃんと喋れずに小学校に入ると言葉の学校に通うようになりました。 母は罵声を浴びたりただ泣くばかりでした。 母は夜台所で泣いていたりしていました。 私自身は仲間外れにされたりからかわれたりいろいろありましたが、幼稚園、小学校と仲良くしてくれた子が一人居てくれたおかげで、人を憎まず、恐れず済んだんだと思います。 理恵?ちゃんと言いますが、今も仲良くしています。
「定期的な検診、尿検査、傷跡の癒着や腸閉塞など痛い思いを多々しながら、私は死ぬはずだった10歳を越え、少しづつ体力がつきました。 身長も平均より伸び、小学校を卒業するころには言語障害もほぼ克服、正しく発音できる言葉が増えて行きました。 スモールゴールを越えながら、私は少しづつ少しづつ普通に話せる様になって行きました。」
読書感想文発表大会があり、大会に出るごとに言葉をしゃべらざるを得ない状況に追い込んでゆくわけです。 そのたびに私の言葉は増えて行きました。 10歳を越えても母は安心していないし、今でも安心していない、心配しています。
部活もできなかったし、外で遊び廻るという経験はなく、家に帰って来て寝るというような生活でした。 たまたまテレビを見ていたらスキーを滑っている場面があり凄いなあと思って居たら片足のスキーヤーでした。(長野パラリンピックだった。) 腎臓も一個ないから駄目なんだと思っていたが、一個あるんだと思いました。 好奇心を押さえたままだったがそれを辞めようと思いました。 岐路の節目節目で障害のある方に3回出会っています。その出会いのお陰で一歩、二歩前に進みました。 まずは両親の反対を押し切って京都の大学に進学しました。 親からは自分でやりなさいと言われて、奨学金とアルバイトでやりました。 大学を無事卒業しました。 二輪免許も取りました。(父にバイクに乗せてもらった経験とどこへでも行けると思いました。)
名古屋で就職をして、結婚、出産、二人の娘の母親となりました。 子供を理由に諦めるという事はしたくなくて、バイクを再開しました。 楽しくてうずうずしている姿を子供には見せたいです。 バイク仲間とあちこち行っています。
「或る日バイクで出かけた先、道の駅で左ハンドルについいている筈のクラッチレバーが右ハンドルについている二輪車両の隣にバイクを止めました。 良く観る中年男性のバイク乗りで、バイク屋さんをしているからと名刺を貰い、帰途に就きました。 帰宅後名刺を見ると片腕ライダー肩書がありました。」
福井勝一さんです。 最初気が付きませんでしたが、吃驚しました。 片腕でバイクの整備をいろいろしている姿を見た時に、障害の有無は関係ない、個人差だなと思いました。目標に向かって何かに取り組むと言う事を忘れていました。 一般人に混ざって演説大会で日本一になりたかった。 中学生で弁論大会、その後30大会近く参加して、30年目で演説の全国大会で優勝することが出来ました。
私はアコースティックギターで弾き語りをするのが趣味の一つです。 地元のライブにも出させてもらえるようになりました。 素敵な人が居て調べたら長谷川きよしさんでした。 今年活動55年目を迎えるそうです。 全盲の方です。 ライブに行ったら吃驚、感動しました。 同じテーブル席の方々から凄く親切にして頂いて、感謝でした。 長谷川きよしさんとファンの方に力を貰って今回障害福祉賞の原稿を書こうと思いました。 ギターを弾くことにも熱が入って行きました。 ファンレターを出そうと思ったが、私自身の文字を読んでもらえる事はないと思って、点字を覚えて送ったら直に触れてもらえると思って、昨年の夏から点字を習い始めました。 全盲の方の弁論大会を見ることがあり、いろいろ便利な使い方が有ることも判りました。
どんな境遇にあっても、父親母親が楽しく笑って家庭での時間を過ごせたら、障害のある無いにかかわらず子供はみんな穏やかで幸せになれるんじゃないかと考えています。
「私は太く長く生きるつもりです。 太く短く何て悲観的にはなりません。 私の好奇心は4歳の時と変わらず旺盛です。 お母さんは強いんだから。 我が人生の本舞台は将来にあり。 これからも楽しく生きて、生きた時間を私は過ごしていきます。 有名なアフリカのことわざに「高齢者が一人亡くなることは、図書館が一つなくなることに等しい。」と言う言葉が有ります。 私が亡くなった時に「お母さんは図書館と言うぐらいなんでも知っていたよね。」と娘たちに言ってもらえるように、沢山の知識、経験を積んで、日々有意義な時間を生きる、それを「生きた時間」と私は呼んでいます。 好奇心の鈴を鳴らし続けて行きたいと思います。