2024年3月8日金曜日

生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること

 生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること  

生島さんは宮城県気仙沼市出身、56歳。 早稲田大学社会科学部社会科学科卒業後、広告代理店を経てフリーのスポーツジャーナリストとして活躍中です。 フリー―アナウンサーの生島ヒロシさんの弟でもあります。 アメリカ大リーグをはじめNBAやNFLなどのメジャースポーツから日本のプロ野球やラグビー、ロードレースなどを中心に幅広く取材し、様々なメディアで作品や文章を発表しています。 今月11日に東日本大震災から13年になりますが、生島さんは当時気仙沼市に住んでいた実の姉を震災で亡くしました。 その出来事をきっかけに高校時代を過ごした故郷、気仙沼を改めて見つめ直し故郷のためになにが自分にできるのかを考え続けています。 震災から13年になるのを前に故郷のためにできることと題して生島さんに伺います。

ドジャースは日本の方にも親しみのある球団だと思います。 野茂はじめ日本人を一番多く取得した球団ですね。 僕は広い視点で見て行きたいと思いますが、大谷がどの程度打てるのかは楽しみです。 50本は期待したいです。 エンジェルス時代は敬遠も多かった。 しっかり勝負する機会も増えると思います。 40本40盗塁は期待したい。 山本投手はフロントスタートか2番手でいきそうです。  1シーズンコンディショニングに気を付けて頑張って欲しいです。  バッターでは吉田正尚選手もいい成績を残したので、期待したいです。 ヤンキース、レッドソックスもここの所苦戦していて、ヤンキースも2009年以来ワールドシリーズに行っていない。 1990年代の後半からの黄金時代はジーターを筆頭に品格と素晴らしいチームが出来上がって行った。

*「花は咲く」 作詞:岩井俊二 作曲:菅野よう子 東日本大震災復興支援ソング

姉は57歳で亡くなりました。 『気仙沼に消えた姉を追って』と言う本を2011年11月にだしました。  気仙沼はいい街だったという事を書き残しておきたかった。 5月23日に見た光景はまだ覚えています、モノクロームになっていました。 なぜ逃げなかったのか、僕には釈然としないものがありました。 判断の積み重ねで、姉は姉でそういう人生を生きてきたんだなと思いました。 逃げないという判断をしたのは僕としては残念でした。 母が2月に亡くなっていて、納骨の日で上京する日でもあって、午前中の大船渡線の列車を取っていれば助かったかも知れない。 残念だが何でそうなってしまったのかを知りたかった。  

姉から電話があって長男が受けました。 僕の携帯に電話をかけてくれていたら、「「逃げろ」とか言ったかもしれない。 ちょっとしたことで人生大きく変わって行ってしまう事がある。 3月18日にすべての携帯電話が復活しました。  その時点で繋がらないのはもう無理なんだろうなと思いました。 うつうつとした日々を過ごしました。 2か月経って気仙沼に行き取材をしました。  家からこんなに海に近かったんだと驚きを覚えました。 道路も新しくなって運転していても、故郷だという感覚も薄まって来てしまいました。  本、雑誌なども沢山かいましたが、そういったものもみんな流されてしまったんだなあと思いました。   安心する場所が気仙沼にはなくなっちゃったというのは正直思います。    

母親の骨壺は姉の家にありました。 家にいても大丈夫だろうと判断したものと思います。 避難先として公民館が200m先にあって、そこに逃げて助かった人たちもいました。  書くことで自分を納得させたかった。  母の介護を姉に任せてしまっていたことは申し訳なかったと思います。  姉が欠けたという事で帰る家がなくなり、故郷が希薄になって、13年経ち、町の区画も変わって行くと、故郷への思いも難しいものだと思います。 僕を形作ってくれたのが気仙沼にあると思います。