石渡博明(国際視覚障害者援護協会 理事長) ・途上国に“あはき”の技術を
国際視覚障害者援護協会は、アジアをはじめとする発展途上国の視覚障害者を招き、日本の盲学校への支援や按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動を続けてきました。 1971年の創設以来、これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。 その取り組みが国際文化交流に大きく貢献したとして、このほど独立行政法人国際交流基金から地球市民賞を貰いました。 この取り組みの意味そして石渡さんの思いなどについて伺います。
私たちの団体は発展途上国の視覚に障害のある若い人たちを日本にお呼びして、日本の盲学校で按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動をしています。 これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。 「筑波盲」で勉強している人が2人、筑波技術大学が2人、京都府立視覚障碍者福祉センターで勉強している人が1人います。 マレーシアが1人、キルギスが2人、モンゴルが1人、ミャンマーが1人です。 基本的にはある程度日本語をやった人、日本点字もできる人となります。
初代の理事長が韓国の方で、日本で勉強したいという事でしたが、当時は心身に障害のある人は留学生になれないという、規定がありました。 日本にいる韓国の親戚に身を寄せて勉強したいという事で、千葉の盲学校で勉強しました。 台湾とかほかの人4人と親睦団体として国際盲人クラブ(ICB)作りました。 韓国のその方が大学の卒業論文でアジアの視覚障害者の実態調査をしました。 日本に来るシステムを作りたいという事で留学生奨学生制度を作りました。 それが現在に至っています。
視覚障碍者にとっては身近にマッサージがありますが、日本の様に体系だった勉強が全くありません。 アジアでは盲学校が非常に少なくない国もあります。 私どもの研修施設で寝泊まりをして日本語の勉強、日本点字、歩行訓練などを予備研修としてやります。(6か月) 付いていけなくて帰る人も少ないですがいます。 戻ってからは福祉の分野、教育の分野などでも力を尽くしています。
私は神奈川県横須賀市1947年生まれです。(76歳) 中学で急に視力が落ちました。 「奇跡の人」が上映されたり、「目の見えぬ子ら」と言う本が出て話題になりました。 視覚障害に興味を満ち始めました。 大学受験では人の役に立ちたいという事で、東京教育大学特殊教育学科の視覚障害を選びました。 大学紛争の時代でほとんど勉強はしませんでした。 通産省の外郭団体で働いていました。 海外から技術者を呼んで勉強させるための企業に支援金を出す団体です。 私は日本語の先生をやったりコーディネーターなどをやっていました。 初代の理事長が韓国語の通訳としてきていました。 手伝ってほしいと言われて手伝うようになりました。 定年退職した年に、週一回ボランティア出勤をして翌年毎日来てほしいと言われて、2010年から理事長になりました。
2000年から文科省から補助金が出ましたが、いろいろな支出は全国の寄付で賄うというような状況でした。 安定的な財源がなかった。 2018年には文科省から補助金が打ち切りになりました。 廃止の話もある中で、6か月研修を3,4か月にしたりして対応してきました。 留学生が帰った後のフォローもしてきました。(情報交換など)
台湾の方(全盲)、モンゴルの方が最近始めたことが印象的です。 日本のような系的な勉強を一から学びたいという事で日本に来て3年間盲学校にお世話になって、国家資格も3つ取って、帰国後も頑張っているという事です。 モンゴルの方はある程度日本語を勉強してから来ましたが、頑張り屋さんで盲学校卒業後国に帰って、もう一度日本に来て筑波技術大学の大学院で勉強して、国に帰ってモンゴル盲人協会立の職業訓練学校で先生として後輩の指導をやっています。 自分で立ち上げて盲人のための幼児教育を始めました。 地方の目の悪い子供たちを捜し訪ねて、日本の協力も得て、施設を作るという事をしました。 日本に行って国際視覚障害者援護協会でいろんなことを学んだので、彼女は日本の援護協会のミニ版を作りましたと言っていました。 私はこの仕事をしていて一番感じるのは、出会いが凄く大事だという事です。 留学は大事なことだと思います。 文化、人を肌で感じることが大事だと思います。 続けてゆくためには財源と後継者が大事です。