2024年3月11日月曜日

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

台所の残り物でちょっとした食事を作る料理バラエティー番組「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」などでの親しみやすいキャラクターでも人気のきじまりゅうたさん、その活躍の陰には祖母の村上昭子さん母の杵島直美さんと言う二人の名だたる料理研究家の存在があるようです。 

祖母の村上昭子さんが亡くなったのは2004年。 生まれた時から祖母と同居していました。 初孫で子供心に祖母が溺愛していたのを実感していました。 祖母のそばでずっと台所にいました。 ステーキナイフを渡されて人参の皮とか、キュウリのヘタなどを渡されてい切っていなさいと言われて遊んでいました。  台所は撮影できるスタジオ場所でもありました。 小学校上がる前には一人で卵焼きができました。 祖母から天才だという風に褒めれてやっていました。 小学校の卒業アルバムにはコックさんと書きました。 高校生で自分の将来を考えた時に、料理メディアの業界に生きたいと思い、祖母に料理研究家になりたいと言いました。 祖母は「男がやる仕事ではない。」と言いました。  収入の安定するサラリーマンになりなさいと言われて、選択肢から外してしまいました。 

大学2年の時に友人に誘われてアパレルショップを手伝うようになりました。 そしてアパレルショップの社員になりました。 24歳までそこの会社にいました。 この先どうしようと悩んでいる時に祖母が亡くなりました。 周りからも言われたりして料理の道への気持ちが動きました。 1年間は会社に残って欲しいという要望があり、その間で夜の調理師学校に行くことにしました。 母にアシスタントになりたいと言ったら了解してもらいました。 母のことは杵島さんと呼んでいて、未だに杵島さんと呼んでいます。 アシスタント時代は時給でした。 

母の動き、カメラマンさんの動き、などを見てタイミングを見計らうとか、いろいろな段取りを学びました。  レシピの書き方は見て覚えました。  アシスタントになって5年後ぐらいに独立しました。(27,8歳)  そのころ「弁当男子」が流行り始めました。(2008年)  出版社と話し合いがあり「弁当男子」と言う本を出すことになりました。  「料理研究家の仕事は料理の作り方を伝えるプロであるべき。」という事は言われてきました。  うちは家庭料理研究家なので店に憧れても駄目で、家で作るものを家で作り易く、そこを考えろとはうちの家訓のような感じです。 母が業務用のガスコンロのカタログを取り寄せた時には、祖母は激怒しました。 理由は「火加減が強くなってしまったら家庭料理ではなくなるでしょう。」という事でした。 42,3年前に家を新築するときに、料理家の動線、カメラマンのスタイリストの動線、編集者の動線などを建築士がチェックしてくれて、完璧な動線を組んで撮影しやすい家を作りました。 祖母は良く可愛がってくれました。 今となっては尊敬する偉人みたいな感じです。     母は現役でやっているので、先輩であり師匠であります。 ライバルの様な部分もあると思います。  

祖母、母への手紙

「・・・俺が料理家になったことをバアバに伝えたらどんなリアクションをするんだろうか。 ・・・なくなって20年以上経った今でもちょいちょい夢には出てくるが、料理の話題には全然ならないんだよね。・・・料理家一族の家訓めいた大事な教えを聞いて来たけど、子供のころから働くバアバと直美さんを間近に見てきて、言葉にできない感覚を受け継げたことが俺にとっては財産です。・・・これからも料理研究家として芯の部分を大切にしながら、料理を軸に自由気ままにいろんなことをしたいと思っています。 直美さんも年を重なるごとに自由になって仕事もプレイベートも元気に飛び回っています。他の一層に70代を迎えていることが息子として弟子として、人生の後輩として凄く頼もしく感じています。 俺はまだ40代に入ったばかり、これからの人生も楽しみだは、と思えるのは二人のお陰だね。  これからも引き続き、宜しく。」

引き継がれてきたハートは、結局誰かに喜んでもらいたいのかなあと思います。