宮嶋裕子(三浦綾子・光世夫妻初代秘書) ・始める一歩が道をひらく
宮嶋さんは1948年中国で生まれ、北海道旭川で育ちました。 クリスチャンの三浦綾子、光世夫妻は多くの人たちを物心両面で支えてきましたが、宮嶋さんも夏休みに、三浦家でアルバイトをした縁もあり、後に秘書として働き始めました。 結婚を機に茨城県に移り3人のお子さんを育てましたが、綾子さんが亡くなる1999年に秘書に復帰し、その後は光世さんの秘書として講演活動を支え、現在は三浦綾子さんの人となりを伝える語り部として活動を続けています。
8年前に上顎歯肉がんになって上顎を手術して、人工の上顎を付けて生活しています。 見た目には判りませんが、昔だったら手術で顔がゆがんだりしてしまいますが、医療技術の進歩で私は太ももの皮膚を口の中に移植しています。 手術は奥歯から5本の歯と一緒に上顎を切除しました。 手術した後は全く口が開きませんでした。 栄養は全部点滴でした。 その後両手の指先を口に突っ込んで、一生懸命口を開ける練習をしました。 口からものを食べられるようになるには、いろんな工夫が必要でしたが、好奇心が旺盛だという事は有難い事でした。 大手術を受けて落ち込みは全くなかったです。 私はクリスチャンですが、その信仰があったというか、神様が私を生かそうと思ったら、もう一つは私は貧しい家庭で育ち、辛い思い、悲しい思いをしてきて、綾子さんの秘書になった時に、悩みの相談がどんどん来る時に、その手紙を読んで心をそらせることが出来たり、子育ても私の力になったので、私が死んでもきっと乗り越えて良い人生を生きて行ってくれるだろうと安心感はありました。
信仰のきっかけは貧しさにありました。 3歳上の姉がいますが、着るものは全部姉のおさがりでした。 私はちょっとませた表情をしているらしくて、クラスメートからセコハンばあちゃん呼ばれて居ました。 小学校5年生で「人は何故生きて行かなけれなならないのだろう。」と思いました。 自分を追い詰めて行って、生きていられなくなって死にたいと打ち明けました。 三浦綾子さんのお姑さん一家とかお兄さん一家が我が家のすぐそばだったので、教会へ誘われていましたが、母は神仏に頼らない人だったので、教会へは行っては駄目と言われていて、そのうち死なれるぐらいなら教会に行かせてやろうと親は大決断をしたらしいです。 高校生で教会にも通い始めました。
教会では差別もなく誰にも平等で、非常に幸せでした。 この幸せをみんなに伝えたいと思いました。 幼稚園の先生になりたいという思いがありました。 東京へ行くときに三浦夫妻からちょうど一か月分の旅費に相当するお餞別を頂ききました。 他にも夏休みに戻ってお手伝いをして、身に余る額を頂きました。 幼稚園を辞めて戻ってきた時に、三浦夫妻がちょうど秘書を捜していまして秘書になりました。 綾子さんが肺結核になり、脊椎カリエスになり、その途中で自殺未遂もしました。 その伝記を「道ありき」という本にして、読んだ読者が、この人に聞いてもらえたらアドバイスを貰えるのではないかという事で死を覚悟した人たちが三浦家に来ました。
三浦家は地上の天国のようなところで、「ありがとう」という言葉を何回も掛けられました。 挫折していた私を常に励ましてくれました。 教会で知り合った人と結婚して、茨城県に移りました。 綾子さんたちと別れるのは身を引き裂かれる思いでした。 娘3人が生まれました。 幼稚園の先生の知識が子供たちを育てるのに役立ちました。 長女は忘れ物をしましたが、「欠点は見方を変えれば長所だ」という綾子さんの言葉が、子育ての時にも生きました。
学校から近いし学童保育をすることを考え、綾子さんに相談したら、「命を預かるんだよ、私は反対だね。」と言われました。 それでもやろうと決断しました。 主人は反対しませんでした。 後で綾子さんからは「私が反対しても絶対やると思っていた。」と言われました。 それから数日後「祝学童保育開設」と書かれたのし袋で、凄く大きなお金を頂きました。 三浦家は「氷点」で1000万円を得たわけですが、びた一文自分たちのためには使わないで、作家としてスタートしても、7年間お風呂のない家で暮らしていました。 常に困っている人を助けたり、家出してきた人を半年間居候したりしています。
3女が学生の時に秘書に復帰しました。(子育ては完了) 2代目の秘書が肺がんで55歳で亡くなりました。 綾子さんを助けてあげて欲しいという、彼女の遺言を受けて私が旭川に駆けつけました。 夫が1週間程度の出張が何回となくあったので、その間を利用して旭川に飛んで行って、茨城に戻ってくるという事を数か月繰り返しました。 半年後1999年10月12日に亡くなりました。 光世さんの講演も舞い込んで、光世さんの初代秘書にもなってしまいました。 綾子さんの作品を読んで生きる希望が湧きましたとか、人生もう一回やり直してみようと思いますとか、という方が物凄く多いんです。 「三浦綾子読書会」が2001年に東京でスタートして、全国で100数十か所でありますが、今もさらに増え続けています。 綾子さんは「氷点」の1000枚にも及ぶのではという小説も一枚から始まる、一行から始まると気が付いた時に、私にも出来るかもしれないと思ったそうです。 私は「始める一歩が道をひらく」という言葉に集約して、そのように始めたいと思います。 今は「一言多く一歩前へ」という事が私の生きる心情です。
一言多くというのは、単に「おはようございます。」ではなく、「おはようございます。」「庭の薔薇がきれいですね。」とか一言プラスする。 それが閉ざしている心をノックしたりすると思います。 語らずにはいられない、という感じなのでどこにでも行って語り続けたい。 それが私が生かされている意味なのだと思います。