2023年10月18日水曜日

井口資仁(野球評論家)          ・〔スポーツ明日への伝言〕 変化を恐れるな!自分を変えて進化せよ

井口資仁(野球評論家)・〔スポーツ明日への伝言〕  変化を恐れるな!自分を変えて進化せよ 

井口さんは1974年(昭和49年)生まれ、東京都西東京市出身。 國學院久我山高等学校から青山学院大学に進み、逆指名で入団した福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)で、1997年からプレーし、44盗塁を成功させた2001年をはじめ、2回の盗塁王、二塁手として3回のゴールデングラブ賞を受賞、更に同じ年に30本塁打30盗塁以上のいわゆるサーティー、サーティーを達成するなど走攻守3拍子揃った中心選手として活躍しました。 2005年からはアメリカ大リーグで4年間プレー、1年目からシカゴ・ホワイトソックスの優勝に大きく貢献するなど2回のワールドシリーズ制覇を経験、2009年に日本に戻ってからは、千葉ロッテマリーンズで選手、2018年からは監督を5年間務めました。 

今年から解説をやらしていただいて、12球団プラスアメリカの全チームをやりはじめて、選手の名前を覚え始めたり、大リーグのほうは大変でした。  一日4試合ぐらい、時には夜中に観ている時があります。  外から観させていただいて、この監督はこういうことを考えながら采配しているとか、この選手はもっとこうすればいいのに、誰かアドバイスをしないかなとか、いろんなことを思いながら解説させてもらっています。  ユニホームを着なかったのは今年初めてで、夏休みを経験したのも初めてです。 

MLBのホームページに「忘れられない野球のシーン」というのに2つ書いてあって、①ルーキーの開幕試合、②引退試合をあげています。  近鉄バファローズ戦で2番・遊撃手として一軍初出場、4回裏の3打席目では山崎慎太郎投手から一軍での初本塁打となる左越え満塁本塁打を放ち、鮮烈に覚えています。  自分ではやり遂げたという引退試合でした。  ZOZOマリンスタジアムでの日本ハム戦で6番・指名打者で出場し、増井浩俊投手からバックスクリーン右へ同点本塁打を放った。 日米合わせて295本のホームランを打っています。 ホームランバッターという意識はないです。  塁に回ってかき回すと言う、これが僕の持ち味だと思ってから、ホームランを捨ててたのでしっかりリズムを上げれ、打点、打率もあがっていきました。  

大谷選手が1年間二刀流で通すという事は大変な事なんだろうなあという事は改めて感じました。  今回2度目の手術をしたことで来期は打者だけになり、再来年二刀流になった時に身体のメンテナンス、リカバリーなど周りがサポートしてあげればいいと思います。   監督の時に佐々木朗希投手を迎えることになり、まだ身体が出来ていないと言う事がありましたので、怪我には注意しながら育成していました。  完全試合を行って次にも可能性がありましたが、球数制限とかあり、私も完全試合を観たかったんですが、ぐっと押さえて交代という事にしました。  7回終わった時点に佐々木朗希自身から難しいと、8回はいけるけれども9回まではいけないというのを言って来ているので、それは救われた部分でもありました。  160km投げるという事はほかの人以上に負担がかかっている。

3割30本30盗塁、40歳まで現役、2000本安打打ちたいとか、いろんな目標を持ちながら最後まで持ち続けて出来たのが、結果を残すことが出来たのかと思います。 1年目は76試合、2年目は135試合、3年目116試合、4年目54試合でした。  この時には肩の故障がありました。  結果を残せず40歳まで出来るのかと自問自答がありました。 5年目(2001年)に盗塁王を取る。 ポジションがショートからセカンドに変る。  コーチから週に1個づつ積み重ねて行けば盗塁王も見えてくると言われました。 ホームランも30本打ちたいという思いもありました。 走ることを意識すると次のバッターの配球とかを凄く読むようになります。 そうすると自分の時の配球も判ってくるようになります。 そこで翌年から打率が上がりました。  ショートへのこだわりがあり、セカンドへ変わることは自分でも苦しい思いをしました。   「3塁打になるのを井口の肩で防ぎたい。」とコーチに言われて、セカンドをやってみようというきっかけにはなりました。  思っていた以上にセカンドは難しかったです。  ゲッツーで逆のターンになるとか。  でもボディーバランスは良くなりました。(右左両方の動きがある。)  

大リーグ2年目、ブルージェイズ戦で9回、ピッチャーの頭を抜けた変なボールを突っ込んでいってつんのめりそうになるところを取って一塁に投げた。 

小中学生のころから右へのホームランは良く打っていました。 プロになってホームランと言われて、強引に引っ張ることで結果を出すことが出来なかった。 右方向へ打つ身体の使い方について指摘され、それを取り入れた練習をしていって、結果が出るようになりました。  身体のなかでボールを捉えるようにという指摘を受けました。 

アトランタオリンピックに参加して銀メダルになりました。 大リーグでプレーするのが2005年からで、シカゴ・ホワイトソックスになります。  監督のオジー・ギーエンが命名した名前は「スマート・ボール」。 (日本に近いような頭を使ってしっかり野球をしてゆく。)  2番として活躍。 やりたいことを出せずに、自己犠牲を強いられる役割にはもやもやしていることがありました。 ギーエン監督から「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われました。 

王監督とギーエン監督(フレンドリー)は真逆の監督ですが、僕自身はこの二人をミックスした監督になりたいという事はずーっと思っていました。  王監督からは悩んでいる時に、タイミングの取り方を教えてもらったのが印象に残っています。  相手も研究してくるので、さらに相手を上回ることを身に付けなければいけないので、自分自身が変化していかないといけない。  ピッチャーに関してもいろんな数字(配球、回転数など)が出るようになってきて、数字を見せながら、こうしたほうがいいという指導方法に変ってきている。  選手の疲労度も数値化されてきて、選手をどこで休ませるか、怪我へのリスクなども考えて、やり始めています。  日本の野球は守り、アメリカは点の取り合い、といった感じの野球ですね。  1年間見てきて、安定して強いのが、投手陣が強いチームなのかなあと思います。