原田大二郎(俳優) ・命ある限り表現者でありたい
1944年神奈川県生まれ、3歳から山口県で育ちました。 明治大学卒業後に文学座研究所に入所、1970年新藤兼人監督の『裸の十九才』に主演し注目されます。 その後は映画、テレビドラマ、舞台で活躍、1980年代にはバラエティー番組に出演し人気となりました。 2001年から母校の明治大学で特別招聘講師として、朗読の講義を10年続けてきました。 現在舞台俳優として活動する傍ら、朗読をライフワークとして全国を回っています。
今年79歳になりました。 大学2年の時に(1963年)、英語部に入っていて、英語劇のコンテストをやるのでキャストをやってくれないかと言われました。 「母危篤」というのがオーディションの課題でした。 声を出さない芝居でした。 電報の「ハハキトク」という文字を読んだら、20年近い母のことが走馬灯のように浮かび涙が止まらなくなりました。 審査員が10人ぐらいいましたが、熱狂的な拍手をしてくれました。 芝居をやってみようと思いました。 6か月練習してコンテストに優勝しました。 一生やって行こうと思いました。
芝居は演じるのでゃなく、役を生きて行かなければいけない。 妻になる人が文学座を受けなさいと言ってくれて、文学座を受けて受かりました。 食うためにはテレビに出なければと思うようになりました。 1970年公開の新藤兼人監督の映画『裸の十九才』、ピストルを手に入れてプリンスホテルのガードマン、タクシーの運転手など4人を永山則夫が連続して殺して、それを題材に新藤兼人監督の映画を作りました。 主役に抜擢してもらってエランドール新人賞を貰えました。 直ぐにNHKの大河ドラマ「新平家物語」に出演することになり、平重盛役を担当しました。 石立鉄男さんは文学座の先輩で、「水もれ甲介」で弟役の輝夫をやりました。
1975年にテレビドラマ『Gメン'75』の関屋一郎警部補役で出演しました。 とにかく走っていました。 最初の1週間で太ももの付け根に腱鞘炎が起きて、6か月間『Gメン'75』が終えるまで続いていました。 追い詰められてノイローゼになってしまいました。 摩周湖に行って霧が晴れてゆく状態を見て、湖面がキラキラ輝いているのを見て、「さっきまで俺病気だった。」という事に気が付きました。 妻に言ったら、判っていたと言われました。 『Gメン'75』の前の年に虎太郎が生まれて、身体の弱い子で小児科の先生から「幼稚園までは難しい」とか、「小学校までは難しい」とか言われて、そういったことを見てきて、自分を責めていたかもしれません。 虎太郎も49歳になりました。
僕の中に入ってきた演劇が僕を助けてくれたと思います。 バラエティーに出演しましたが、やらなかった方が良かったのかなあと、今も考えたりします。 皆しゃべらないんですが、俳優って普段は面白い人なんだという事を見せたのは、僕が初めてかもしれません。 3年やっていると、僕を育ててくれた監督たちが離れてゆくんです。(お笑いに行ってしまったという事で)
3年先輩の佐藤さんから、明治大学で特別招聘教授というシステムがあるから、やって欲しいという風に声を掛けられました。 演劇学コースの朗読を担当することになりました。 詩集を自分で作って詩の朗読やりました。 面白くて、演劇をやらせてみようという事になりました。 シェークスピアを学生に朗読させることになりました。 僕が演劇者として勉強したのは60歳からです。 人に勉強を教えるという事は良い事です、自分で勉強しなければいけないから。 演劇の勉強は色々あるが、一番大きいのは言葉を伝えるという事だと思います。 そこのところを本当に勉強しました。
演出家は演出語を使って俳優に言うわけです。 俳優は演出語を俳優語に翻訳して、表現していかなけらば行けない。 僕は演出語を俳優語に翻訳できるので、1回で欲しいものが出てくる。 70歳ですっかり朗読に引き込まれてしまいました。 京都で会場を借りていたら、「森鴎外の「高瀬舟」をやってくれないか。」と言われました。 パーカッション(打楽器)で伴奏してくれる人が居るという事でした。 「高瀬舟」の後で、なんかやろうかという事で、朗読でパーカッションの伴奏でやって、その後もやっています。 即興でやっています。 朗読はライフワークの様になっています。 「怨讐の彼方に」(菊池寛の短編小説 耶馬渓にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧である禅海の史実に取材した作品。)というものを西日本をずーっと回ってやります。
指針みたいなものという事ですが、「兎に角尻尾は巻かなかった。」、尻尾を巻くという事はそこから逃げてしまう、自分が対処しなくなる。 尻尾を巻かないと、向こうの方から解決していってくれる。 60歳になって、人間って勉強しようと思えば、勉強できるんだと思いました。 80歳から始めても遅くはないです。 棺桶に入る時に遅かったなと思わないことです。 完成という事はないんですから。 棺桶に入るまで楽しく暮らせば良いのではないかと思います。