高汐 巴(歌手/元宝塚歌劇団トップスター)・〔わたし終いの極意〕 出会いはすべて愛おしい
高汐さんは京都出身の70歳。 宝塚歌劇団の花組男役トップスターとして活躍し36年ぐらい前に宝塚を卒業しました。 初舞台から51年目になります。 初舞台から51年目になります。 愛称の「ペイ」は、本名を美子と言いますが、林家三平 (初代)のギャグ「よし子さん こっちむいて・・・」というのがありますが、学生時代から「三平」と呼ばれていて、そこから「ぺイ」となりました。 新語が生まれて行って、全部「ペイ」が付くんです。(アラウンドペイ、ペイヤングなど)
初舞台が1972年、16年在籍していました。 芸事は全くしていませんでした。(周りは芸事が出来上がっている人たちばっかりでした。) 厳しかったんですが、楽しかったです。 声だけは大きかったです。 好奇心は強かったです。 父は殿様蛙のような、山口県萩の出身で二枚目のモテモテの父でした。 母は滋賀県の近江商人の血が流れている12兄弟の長女でした。 根性のありド根性蛙のような人でした。 (い加減なところもありました。) 「高汐さんはトップになれないんじゃないの。」という声を聴いて「なにくそ」と思いました。 トップの主役を頂いた時には、80人のチームのリーダーとしてセンターで立たせていただけるので、プレッシャーがあり嬉しいとかはまったくなかったです。
昨年、「吾輩はペイである」というエッセーを出版。 私が9歳の時に両親が離婚して、紆余曲折があり、父の新しい家庭に新しい母と何年か過ごすことによって、屈折した時を過ごし、暗くなって又母の方に戻って(中学3年生)、宝塚と出会って、宝塚に育てられ宝塚に救われたような感じです。 初めて宝塚を見た時には、衝撃で絶対この舞台に立ちたいと思いました。 父は3回結婚していて第一夫人に4人、二番目が私の母で妹が一人居ます。 三番目は連れ子がいました。 4年間一緒に暮らすことになり、自分の居場所がなく気を使った子供時代を過ごしました。 どこでも自分の力で咲いてゆく逞しさ、が大事で特に母からもらっているような感じです。
宝塚からは膨大なプレゼントを頂きました。 一番大きなものは感動です。 両親からは健康な体を貰ったことが一番貴重です。 母は100歳で昨年亡くなりました。 父は87歳で亡くなりました。 父が荼毘に付されて出て来た時には、人間はこうなるんだよと、灰になってお骨になって、それを観た時に一日、一分、一秒を大切にしなければいけないんだなという事を感じました。 父親っ子だったので悲しかったです。 それで母も大事にしなければと思いました。 父の死が大きな節目になりました。
今月上演された舞台「だれがオバンやねん!」では母親がモデルになっています。 「だれがオバンやねん!」は母の口癖でした。 私が母親の役をやりましたが、いろいろ母の気持ちが判りました。 母に対して私なりの親孝行は出来たと思います。 10年前に大阪芸術大学の客員教授として通っていて、毎週母の元に行けました。
先はどうなるかわからないので、考えても仕方のない事なので、悔いがないように今をちゃんとしっかり生きるという事にしています。 今を大事にしています。 私が経験した、私にしか判らないことを、学生たちに伝えればいいんじゃないかと思っています。 学生たちから学ぶという事が多いです。 母は他人に何かしてあげたいという気持ちの強い人で、高齢になってして貰う事になった時に、「お母ちゃん これやって。」とか言うととても生き生きするので、それってすごく大事なことだと思います。 自分が何か役に立ってるという事が高齢になっても生きるエネルギーになるという事を学びました。
地に足の着いた芸能の仕上げの時期だと思います。 〔わたし終いの極意〕とは、この瞬間を全力で生きる、です。(休憩もしますけど) 精神のチェンジ、マイナスには考えない。