五街道雲助(落語家) ・了見だけはアウトローで
今年柳家小さんさん、桂米朝さん、柳家小三治さんに次ぐ落語会4人目に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。 1948年(昭和23年)東京墨田区本所生まれ、江戸っ子で響きのある美声、確かな話芸で落語通が心酔する落語家です。 明治大学2年で中退して、1968年20歳で金原亭馬生さんに入門、1972年に二つ目昇進、五海堂雲輔に改名、1981年に真打に昇進しました。 滑稽話から人情話、時代物、怪談物など長い話を聞かせる雲助さん、明治大正の埋もれた古い話も復活させています。
電話が文化庁からかかって来まして、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたという話を受けました。(面喰いました。) 私がこの名前を継いだときには差別用語に近いような名前でした。 本所生まれということで、そういったところで生まれたことは噺家になって得だったなあという気はします。 私が入ったころは地方出身で落語家になると言うことは難しいところはありました。 地方から来た人は訛りで困ってしまうという事はありました。 落語自体が全国区になって来ましたのでなくなっては行きました。
1948年(昭和23年)生まれで、子供時代は引っ込み思案でした。 人前に立つとか目立つというようなっことが苦手でした。 学芸会などで役をもらったりしすると、平気で人前に立てました。 役の中に入ってしまえば自分は表立たないで済むという感じでした。 母親が落語、歌舞伎が好きでよく連れて行ってもらいました。 上野の鈴本によく連れていてもらいました。 柳家三亀松先生の時には母親からは駄目だと言われてしまいました。 大変に色っぽい芸で子供に聞かせるわけにはいかないという事だったようです。 歌舞伎も母親は11代目市川団十郎さんが好きでして、団十郎、幸四郎、松緑3人で勧進帳を入れかわりでやったというものにも連れて行ってもらいました。 雲の上の団五郎一座などにも連れて行ってもらいました。 生でしたので大変に影響を受けるところがありました。
明治大学に入って落語研究会に入りました。 しゃべり下手でしたので、雄弁会か落語研究会と思っていましたが、落語研究会に入ってしまいました。 中学、高校では寄席には行っていませんでしたが、連日寄席通いをするようになってしまいました。 すっかり落語にはまってしまいました。 好きになったのが小さん師匠、うちの師匠でした。 大学を中退して落語の世界に入る事になりました。 2年から3年になる時に落第制度がありました。 勉強しようと思ったが、教科書が無くて、全部寄席代に使っていました。 それでは噺家になるかというようなところはありました。
小さん師匠の家をさがして、弟子入りに行きましたが、20数人いてとても取れないということでした。 馬生師匠のところへ行くことになり入門することになりました。(20歳) 弟子はもう6,7人いました。 私が7人目で「駒七」という名前が付きました。 通いでした。 優しく丁寧に接してくれる ようなところはありました。 どんなことをやってもいいよというようにフリーなところはありました。 それによって肥やしになったという事はあったと思います。
1972年で二つ目となり、「六代目五街道雲助」と改名。(珍名だった) 当時、何故か松本のタクシー会社のコマーシャルをやったことがあります。 二つ目での高座は余りありませんでした。 勉強はしていました。(1年で200近く) 続きものの人情話をするようになったのも自分のためになったという気がします。 しか芝居(噺家芝居)もよくやり役に立ちました。
1981年33歳の時に真打昇進。 「とり」を取ることは緊張するし、力も籠もります。翌年師匠に馬生が亡くなりました。(54歳) ちょっと若過ぎました。 古速記から掘り出すようなことを始めました。 古速記は落語の宝箱のような気がしましました。 馬生師匠は落語に出てくる役を演じるんじゃない、役の心を演じるんだという事は、凄く肝に銘じています。 「なんでもいいんだよ、でもどうでもよくはないんだよ。」という言葉は、すべて生活などに的を得ている言葉だと思います。
今年、古今亭志ん生さんの没後50年。 馬生さんの没後40年。 志ん朝さんの没後23回忌。 「貴方の持っている無形文化財をどんどん披露していてくださいよ、それをまた後進にも伝えていって下さいよ、そういう立場に貴方は立ちましたよ」、という事なので、責任感を感じているところです。 了見だけはアウトローでいた方がいいという感じがします。弟子は3人います。 五街道 喜助、佐助、のぼり 3人とも寄席のトリが取れる器にはなっています。 健康管理はしっかりやって行きたいと思います。