森まゆみ(作家) ・関東大震災100年、聞き書きから学ぶ歴史
森さんは1954年東京都文京区生まれ。 大学卒業後出版社、PR会社などを経てフリーの編集者、ライターとなりました。 1984年主婦仲間と協力して、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊、自分たちの住む地域を対象に、聞き書きと言う方法を通して地域の歴史や文化、地域が抱える問題などをとりあげました。 「記憶を記録に」という編集方針のもと多くの読者を得ました。 今年は関東大震災から100年、森さんは「谷中・根津・千駄木」で取り上げた庶民たちの震災体験に再度当たり、新著「聞き書き関東大震災」を出版しました。 未曽有の大災害を体感し、将来の災害の手立てになればという思いも込められています。
関東大震災と東京大空襲は大きな事件だったので、父方の祖母から芝,白金あたりで関東大震災に遭って、宮城県の実家に1歳の子を連れて列車のつぎはぎで避難したという事を何度も聞かされました。 母方の方は関東大震災は浅草あたりで遭って隅田川に沢山溺死した光景を見ているので、それが怖くて東京大空襲の時には川に逃げるのは辞めようという事で浅草寺に逃げて助かりました。 20代の終わりに地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊してからは街のお年寄りの話を何千人ときいてきましたが、この二つは必ず出てきます。
「聞き書き関東大震災」を出版しました。(340ページ) 大事なのではと急に思いつきました。 1984年主婦仲間と協力して、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、2009年まで26年間出していました。 主に地域の歴史を掘り起こして「記憶を記録にしておこう」と毎回1万分ぐらい売れていました。 その雑誌から関東大震災に関するものをピックアップしました。 時間軸に沿って編集し直して、揺れ始めてからどのように行動したとか、何が大変だったのかという事など全体像が判る様にしたいと思いました。 1990年に一回関東大震災に関する特集をやっています。(24号)
「谷中・根津・千駄木」辺りは大空襲では焼けなかった地域で、古い建物が残っています。耐震基準の見直し以降、しっかりした建物が出来たり道が広がったり、強度改築へ行政が補助を出したりしています。 関東大震災はほとんどが焼死で、阪神淡路大震災では圧死が多かったです。 東日本大震災では多くは津波による溺死でした。
実際に体験したことは非常にリアルです。 自分たちが街を守るという事は必ずしも悪い事ではないですが、関東大震災では自警団が木刀とか日本刀とか武器を持ち出して、まともに答えられないと暴力をふるってしまう、という事は非常に良くなかったですね。 当日の3時ぐらいから「流言飛語」で、朝鮮人とか、社会主義者が大挙して襲ってくるとか、毒を井戸に入れるとかあり、朝鮮人の虐殺、中国人の虐殺、間違えられた日本人も殺されたり、という事がありました。(福田村事件 劇場映画にもなる) 朝鮮人の虐殺の映画化は難しい。 関東大震災では約10万5000人が亡くなっていて、首都の半分ぐらいが焼けてしまって、大日本帝国陸軍の本所の被服廠(軍服を作っていた跡地)の沢山の人が大八車などで集まって来て4万人ぐらいのうち3万8000人ぐらいが焼け死んでしまったという、最悪の事態でした。
早稲田大学政治経済学部卒業して、出版社に就職しました。 フリーとなり、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊することになります。 子どもを育てながら街で出来る仕事はないかという事で3人(イラストレーターを含め4人)で始めました。 山崎さんは自然が好きで、妹(仰木ひろみ)は暮らし向きが好きで、私は歴史、古い文化が好きで聞き取りをしたかった。
私たちの街は火事がなかったので、無事を喜ぶという話があります。 長屋が潰れて救出したという話があり、お茶の水あたりが焼けて本郷三丁目辺りに火が来るという事で、どうにかしなければいけないという事で、青年団、在郷軍人会、町会などが活躍しました。 私と同じ名前の「まゆみ青年団」というのがあって、真砂町、弓町の名前を取った青年団で、凄く消火活動に活躍した人たちでした。 その後被災者の救援をしたり、無事だという手紙の代書をしたりボランティア活動をしました。 家の地域は焼けなかったので逃げてきた人への援助、もてなしをしていました。
後藤新平はスケールの大きな政治家ですが、関東大震災の時、加藤内閣の時に首相が病気で亡くなって、後藤新平が内大臣になり、復興院を作って総裁になり、都市計画をするチャンスでグランドデザインを作ります。 反対もあり予算も削られて行ってしまう。 でも耐震性のある復興小学校と復興公園をセットで作ったり、大きな公園を作ったり、震災復興の橋をいくつも作って、ほとんど重要文化財になっています。
9月2日に内乱が起きていないのに戒厳令を出します。 そして軍隊が動き出します。 軍隊が強くなってゆくきっかけにもなったと思います。 町会、青年団、在郷軍人会とかお上のいう事を聞くような団体が増えて行った。 自分の町は自分で守れみたいな、国防というようなものに繋がってゆく。 戦時体制に入ってゆく流れがあると思う。 吉野作造は宮城県古河の出身の政治学者、東京大学教授で、関東大震災の後の朝鮮人虐殺をちゃんと伝えようとして、どのくらいどこで亡くなったのか調べて「改造」という雑誌に書こうとしたしたが、検閲でつぶされてしまう。 社会主義者の虐殺もあり、亀戸事件(川合義虎、平澤計七、加藤高ら10名が殺される。)、16日には大杉栄、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一も憲兵隊によって殺されている。 吉野作造も標的にされていたようです。(昭和8年に肺結核で亡くなる。) 今回暗い時代の人々の章に吉野作造を加えました。
関東大震災の時に人が一番助かったのは上野公園です。 50万人が避難してきて長い人は1年ぐらいいました。 東大の法学部の末広厳太郎先生、穂積陳重任先生たちが学生と一緒になって、避難生活を支えたりしました。 防災の点でも都心の緑は大事です。 神宮外苑にも5万人の人が避難しています。 日比谷公園、神宮外苑も開発されようとしている。 木が持っている人間にとっていいもの、大事なものがある。 東京は木と共に暮らす大都市であってほしい。