頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 石川啄木
1886年〈明治19年〉生まれ、 1912年(明治45年)に亡くなる。 26歳の若さでしたが、残された歌は、時を越えて今なお心に新鮮に響いてきます。
「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」 石川啄木
歌集に「一握の砂」「悲しき玩具」があります。 去年が没後110年。 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」は凄く感傷的ですね。 石川啄木はとことん感傷的です。 啄木の歌の良さの一つだと思います。
「一握の砂」はは三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得た。
[東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる] と改行してある。
「我々の歌の形式は、万葉以前からあったものである。 しかし我々の今日の歌は、どこまでも我々の今日の歌である。 我々の明日の歌もやっぱりどこまでも我々の明日の歌でなくてはならない。」
「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」 石川啄木
「ぢっと手を見る」で人間の悲しみが出る。
短歌は花鳥風月を詠うものと思っていますが、この歌には花鳥風月が全く出てこない。 石川啄木は生活を詠う。 庶民の実生活を詠う。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」 石川啄木
「気の変わる人に仕えてつくづくと我が世が嫌になりにけるかな」 石川啄木 会社勤めで嫌な上司がいる人にはすごく共感できる歌だと思います。
「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」 石川啄木 ぐっと胸を掴むような歌です。
「永遠にまろぶことなき佳き獨樂をわれ作らむと大木を伐る」 石川啄木 啄木の初期の作品 カフカの作品にも駒という同じような作品がある。 きわめて些細な事でもそれを本当に認識すれば、すべ手を認識したことになる、と哲学者は思った。 回転する駒を上手く捕まえることが出来たら真理に到達できると思った。 駒を捕まえると当然駒は止まる。 哲学者はいつまでも真理に到達できず、よろめきながら去ってゆく。 永遠に回り続ける駒は人を惹きつけるものがある。 どっしりした大木から駒を作れば永遠に回り続ける駒が作れるのではないかという発想が面白いですね。
「大海にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾億年. も」 石川啄木 人間も沢山いるのだから中には死なない人もいるのではないか、周囲に自分のことを知られているといつまでも死なないのはおかしい。
「わが胸の底の底にて誰そ一人物にかくれてさめざめと泣く 」 石川啄木 自分の中に誰かがいて誰かが泣いている気がする、そんなことがありますね。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」 石川啄木 ノスタルジーも石川啄木の重要な要素です。
「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」 石川啄木 ノスタルジーに浸るためにわざわざ出かけて行って聞く。
「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」 石川啄木 故郷の山をここまで肯定的に詠んだ歌はそうそうない。
「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」 石川啄木 石川啄木の本当の生まれは渋民村ではなくて、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村です。 1歳の時に渋民村に引っ越す。 啄木の父は僧侶。 出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤一(くどうはじめ)が本名だった。 「啄木」は雅号。 13歳の時に、後に妻になる堀合節子と出会う。5年生(最終学年)の1902年(明治35年)、一学期の期末試験で不正行為等があり、啄木は、10月27日に中学を退学し渋民村を去る。 東京でもうまくいかず20歳の時に母校の渋民村尋常小学校に代用教員として戻ってくる。 その時にはすごく熱心に教えていた。 父親が檀家ともめて失踪してしまう。 啄木も渋民村を去ることになり、その後二度と戻ることはなかった。
「石をもて追はるるごとくふるさとを 出 ( い ) でしかなしみ消ゆる時なし 」石川啄木 帰れなくなった人ほど故郷は恋しいのかもしれない。
「 当てはまらぬ、無用な鍵! それだ! どこへ持って行っても余のうまく当てはまる穴がみつからない!」 石川啄木 (日記の一節) 本人は小説家になりたかった。 でもうまくいかなかった。
「何 ( なに ) となく自分をえらい人のやうに思ひてゐたりき。 子供なりしかな」石川啄木
「 こころざし得ぬ人人の あつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかな」 石川啄木
「公園の 隅 ( すみ ) のベンチに二度ばかり見かけし男このごろ見えず」 石川啄木 挫折を経験したことは啄木の短歌にとって、とても大きなことだと思います。
「ふといままで笑っていたような事柄が、すべて急に 笑う事が出来なくなったような心持ちになった。」
「歌は私の悲しいおもちゃである」 歌は挫折した自分を慰める事であった。
「『石川はふびんな 奴 ( やつ ) だ。』 ときにかう自分で言ひて、 かなしみてみる」石川啄木 自己憐憫の極みですね。
「自分を憐れむというぜいたくが無ければ、人生なんて言うものは耐えられない場合がかなりあると私は思う。」 レッシングという作家の言葉
「病 みてあれば心も弱るらむ! さまざまの泣きたきことが胸にあつまる」 石川啄木 よくここまで病人の心を読んでいるなあと思います。
「ドア推してひと足出れば、病人の目にはてもなき 長廊下かな」 石川啄木
「 話しかけて返事のなきによく見れば、 泣いてゐたりき、隣の 患者 」 石川啄木
「病院の窓によりつつ、 いろいろの人の元気に歩くを 眺 む」 石川啄木
「 氷嚢の下よりまなこ光らせて、寝られぬ夜は人を憎める」 石川啄木
病人はどうしても世の中とか人を憎んでしまう時がある。それを口に出したら人は離れて行く。 口に出せない気持ちを思い切り描いてくれるのが文学のすばらしさですね。
「ローマ字日記」は人間の心の奥底まで赤裸々に描いてある。 文学作品として読むことができる。
カフカは「幸福とは不安がないことだ」と言っている。 不安を沢山経験すると、不安がないだけで物凄く幸福なんです。
石川啄木も大変だったと思います。
「余の求めているものは何だろう。 名でもない。 事業でもない。 恋でもない。 知識でもない。 そんなら金 金もそうだ。 しかしそれは目的ではなくて手段だ。 余の心の底から求めているものは、安心だ。 きっとそうだ。 余はただ安心をしたいのだ。 今夜初めて気が付いた。 そうだ、全くそうだ。 それに違いない。 ああ、安心、何の不安もないという心持はどんな味のするものたったろう。 長い事、物心ついて以来、余はそれを忘れてきた。」 石川啄木 (「ローマ字日記」より)