鶴澤燕三(文楽三味線) ・師匠の教えを守り続けて
ハワイ生まれで、ほとんどアメリカ人になってしまいましたが、ウクレレとかに触れて楽器が好きでした。 帰国した時に囃子方を募集しているのを知って、行きたいと思いました。(中学生) 笛方に応募、五線譜のない楽譜でした。 意味がわからなかった。 冬に稽古を始めて夏がお祭りで、それがお囃子デビューでした。 全曲覚えてしまい太鼓も覚えてしまいました。 五線譜ではない楽譜によるアンサンブルに凄く惹かれました。 中学、高校はずーっとお囃子をやっていました。
帰国したのは小学校6年生でした。(12歳) 姉が3人いて、ピアノを弾いていました。 ピアノをやりたいと思っていましたが、父が男は剣道だと言って剣道の道に入りましたが、楽器をやりたいとは思っていました。 高校3年のお正月にテレビを見ていたら、三味線の特集の番組をやっていて興味を惹きました。 友人にその話をしたら、友人の母親が三味線を習っているので見に行くことになりました。 葉山まで見学に行ったら、その先生は逗子に住んでいてやりたいなら来なさいと言われ、始まりました。
両親は転勤で長年香港にいて、長女が親代わりでした。 大学受験の時期で、姉に三味線のことを話したら、「大学ばっかりが能じゃない、良いわよ。」と言われて、三味線を購入して、逗子の先生のところに通い始めました。 周りはおばさんばっかりでしたが、面白かったです。 九州の従兄弟がたまたま葉山に来ていて、彼女が大学の卒論で淡路の人形芝居をやっていました。 彼女が、国立劇場で研修生を募集していることを知っていて、直ぐに電話してしまいました。 研修風景も見学して、応募して第4期研修生になりました。 偶然人形の吉田蓑助師匠と昼食することになり、研修は2年でしたが、「5年やってみることだと、そうすれば向いているかどうかわかるから」と言われました。
研修中はほとんど家には寝に帰るような状態でしたが、苦には感じませんでした。 爪で押さえてはじくんですが、皮が薄くなり破れたりして、そのうちタコが出来てきます。(3か月ぐらい) バチ使いもいろいろあり、身に付けていきます。 心底辞めたいと思ったことはないです。 懸命にやっていて、大きな失敗をしたことが一度ありましたが、師匠が笑って、「失敗はするもんや」と言われて胸のつかえが吹っ飛び、辞めずに済みました。
1年目の研修が終わって、卒業生の既成研修がありその時の担当師匠がうちの師匠でした。稽古をしてくれて、教わったのを必死で頑張って、翌日間違いなく弾いたら、師匠が涙をためていて、「よう覚えた」と言ってくれました。 それでこの師匠の弟子になりたいと思いました。 必死になると、師匠のバチ使いなどが映像として残ったりします。 師匠が弾いて、一緒に弾いて、自分で弾いての繰り返しです。
1995年、師匠は公演中に倒れそのまま引退することになりました。 途中から演奏がおかしくなり、舞台モニターがあり、それを見たら意識がないまま弾いているのがわかり、飛び出していって「師匠大丈夫ですか」と言ったら、ジロッと私を見たが、又正面を向いて演奏にならない音を続けました。 救急車を呼んで、三味線を取ろうとしたがなかなか離さなかったが、凄い力で何とか離しました。 バチは握って離さないまま病院に行きました。 緊急手術をしましたが、噴水の様に出血していたという事で、そのまま死んでいてもおかしくない状態だったという事でした。 強烈な体験でした。
2006年4月に6代目鶴澤燕三襲名することになりました。 燕三という名前を汚してはいけないという事が一番のプレッシャーでした。 師匠が倒れた時と同じ曲での襲名披露でした。 2014年に脳梗塞で倒れて、病院に三味線を持ってきてもらったが、三味線を全然弾けなくなってしまいました。 どう弾いていいかわからない。 右手、左手がシンクロしない。 退院してリハビリをしているうちに、何となく弾けるようになってきて、6月に倒れましたが、9月の公演には復帰しました。 その時に復帰しなければ辞めていたかもしれません。 記憶力は無くなってはいなかった。 リハビリをしつこくやるのは効果があると信じています。 弟子を取ることになりましたが、師匠からは「弟子を取るという事は、人様の大事な息子を預かるという事、ワシも気を付ける、君も頑張れ」と言われました。 「人様の大事な息子」というのは常に頭に響きます。