尾藤イサオ(歌手・俳優) ・声が出る限り歌う!
尾藤イサオさんは1943年東京都台東区生まれ。 1953年小学校4年生の時に、曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗って、太神楽の曲芸師として活躍、その後音楽に興味を持ち、曲芸師を辞め歌手を目指し、ジャズ喫茶で歌うようになります。 1963年に日劇ウエスタンカーニバルに初出演、1964年には『悲しき願い』が大ヒットします。 1966年の「ザ・ビートルズ来日公演」では前座を務めました。 1970年人気漫画「あしたのジョー」のテレビアニメ版の主題歌を歌い大ヒット、代表曲の一つになります。 現在、歌手としてもコンサートの舞台に立ち、俳優としても映画、テレビ、舞台でも活躍しています。
79歳です。 12年前、「みんなの歌」が50年を迎えた時に、で「赤鬼と青鬼のタンゴ」「サラマンドラ」「フラミンゴのワルツ」3曲を歌いました。 「サラマンドラ」は大好きです。 健康で生きてこられました。 3歳の時に父親が他界して父親の記憶がないです。 父親は寄席芸人の3代目松柳亭鶴枝で、百面相と言って、かバンの中に髭だとか、ハチマキだとかあり、一番最後は手ぬぐい一本で顔を真っ赤にしてタコが茹で上がってゆくのが得意だったようです。 母親は三味線を弾いて父親のBGMをやっていたという事です。 兄が曲芸師になるというようなことでしたが、やりたくないという事で、末っ子でしたがやりますと言って、曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となりました。 ナイフを使った曲芸とか傘の上で枡を回したり金輪などを回したり、火焔バチなどをしていました。 曲芸は10歳から16歳までやっていました。 芸事を覚えるのは早かったです。
1959年に年季があけて、これからはお金がちゃんと貰えるようになるからと言われましたが、師匠に曲芸は辞めますと言いました。 プレスリーみたいになりたいと言いました。 ラジオから流れるプレスリーの声にしびれてしまいました。(曲芸師の時) アルバイトを半年ぐらいしていました。 ジャズ喫茶に行って、ブルーコメッツで歌っていた鹿内孝さんに習いました。 2,3か月後にジャズ喫茶に出る様になりました。 舞台慣れしていたので、当時流行っていたツイストをやったりして目立つようにしたりしました。 そのうちにテレビのレギュラーが決まって行きました。
1963年の「新春日劇ウエスタンカーニバル」初出演することが出来ました。(デビューして1年足らず) 平尾昌晃さんたちはもう卒業して、先輩が水原弘さん、同期が内田裕也さん(年上だったが)などでした。 関西のプレスリーが内田裕也さん、東京のプレスリーが佐々木功さんでした。
向こうの曲を日本語で歌うとノリが違ってきてしまいます。 「マック・ザ・ナイフ」は数回しかステージではうたわなかったです。
*「銀の十字架」 歌:尾藤イサオ
最初ビートルズはプレスリーに比べれ、ボンボンというような印象でした。 60年前には武道館でビートルズの前座をやりました。
人前で何かやることが根っから好きなんでしょうね。 37,8のころに1mぐらいの距離にいる娘の顔が歪んで見えたりしました。 暗く見えたりもしました。 眼科に行って調べてもらったら黄斑変性と言って、目の中に黄色い部分があって、目が駄目になって仕事が出来なくなったらどうしようと思いました。 大学病院を紹介してもらい、中心性網膜症みたいなことをいわれましたが、現在もやりようがないという事でそのままです。 若干上の方を見ないと相手の顔が見えなくて、目線を合わせてしまうと顔がのっぺらぼうの様に見えないんです。 目線を合わせないと、誤解されてしまう事があります。 舞台に立っていて不自由することはないです。 テレビなどでは不自由することもあります。