2023年4月22日土曜日

坪倉優介(草木染作)          ・草木染に込める命の再生

坪倉優介(草木染作)  ・草木染に込める命の再生~記憶喪失からつかみ取ってきたこと~ 

34年前大阪芸術大学に入学したばかりの18歳の時、運転していたバイクが停車中のトラックに衝突し意識不明の重体になりました。  10日後意識が戻った時にはそれまでの記憶のほとんどを失ってしまっていました。  家族や友達の顔だけでなく、食事や睡眠といった基本的な生活習慣も理解できぬまま退院、今も18歳までの記憶は残っていません。  現在草木染め作家として活躍する坪倉さんに、記憶を失った直後の日々の葛藤、草木染に込める思いを伺いました。 

草木染の作品、一つは薄い淡い色の茶色、もう一つは黄色のようにも見えるし黄緑に近いようにも見えます。   光の当たり方によって色合いがちょっと変わります。   蓮の葉っぱで染めています。   蓮だけでベージュにもなるし、もっと深いグリーンにもなりますし、黄色にもなります。   埼玉で撮った蓮では黄色に染めるやり方で淡いピンクに染まったこともあります。   花が咲く前なのか、後なのか、水、土が関西とは違うのか、調べし続けて居ます。   人間が作ったペンキ、絵の具はカラフルで綺麗ですが、その作り得ない色を自然は作り上げる。  草木染めの面白いところは、観た時の葉っぱの色、花の色とは全然違う色に染まるのが面白いです。  

34年前18歳の時に、バイクに乗っていて交通事故に遭って救急車で運ばれました。   意識が戻ったのは事故から10日後。   ゼロ歳の赤ちゃんの戻ってしまったのが、脳内出血の怖さかなと思います。   それから12年後に書いた著書があります。     退院して家に向かう時の描写が書かれている。                         「これから何が始まるんだろう。   目の前にあるものが初めて見るものばかり。  何かが僕を引っ張った。    引っ張られてしばらく歩くと、押されて柔らかいものに座らされる。   バタンバタンと音がする。   色々なものが見えるけれど、それが何なのかわからない。   柔らかいものに座っていると突然動きだした。   外に見えるものがどんどん姿かたちを変えてゆく。   上を見ると細い線が3本ついて来る。  凄い速さで進んでいるのに、ずっと同じようについて来る。   線が何かに当たってはじけ飛ぶように消えた。    すると2本になった。  しばらくすると今度は4本になった。  この線は何なんだろう。 ・・・・急に今まで動いていた風景が止まった。  すると上で動いていた線が止まる。  最初と同じ3本になっている。  ・・・外に出されると、僕が見ていた細い線がずっと遠くまで延びていた。 ・・・つぎに止まった場所には静かで大きなものがあった。 ・・・「ここが優介のお家やね」と言われた。 何のことかわからなくてただ立つだけだ。   何かに引っ張られてそのまま入ってゆく。」

線は電線だったという事です。  名前を分ける理由が判らなかったので、車も人も動物も自分とは違うもの、今まで観た病院の中ではない場所にいきなり連れられて行って、そこは不安、これから先どうなるんだろうと思っていたが、唯一変わらないのが電線だった。  それを見ることで安心はしていました。   

「僕が何したの。 何が何だかわからない。  この家や部屋と呼ばれるところでどうすればいいのだろう。 ・・・どこへも行けない。 何も手が出せない。  座って周りを見るけれど、知らないものばかり。・・・何を言っているのかもわわからない。  どうしていろいろな顔をするのだろう。  それで僕の気持ちも変わってしまう。  口が大きくあいて身体が揺れている顔を見ると安心。 でも目や口を小さく細くした顔で見られるのは厭だ。  僕が何をしたの。」

言葉を知らない赤ちゃんのような状況で、表情、空気で判断するしかない。  お口を大きく開けて笑っていると安心しました。  いまだにお腹が空くってなんだ、眠たくなるってなんだ、皆がしていることに合わせるようにはしているが、未だによくわからない。    

「母さんが僕に前に何かを置いた。  煙がもやもや出てくるのを見て、直ぐに中を覗く。 すると光る粒粒がいっぱい入っている。  こんなきれいな物どうすればいいのだろう。  母さんがこうして食べるのよと教えてくれる。・・・ぴかぴか光る粒粒を口の中に入れた。舌に当たると痛い。・・・ こうして噛みなさいと言われる。・・・ 動かせば動かすほど小さな粒粒も動きだす。   口のなかでジワリと感じるものがあった。  ・・・どういったらいいのか言葉が出ない。   母さんが美味しいと聞いて来る。 それが何のことかわからないので黙って口を動かし続けた。・・・母さんがもっと口に入ると思えば「美味しい」と言って、・・・僕は口を止めて「美味しいといった。」・・・あの光るものをご飯というんだ。 口の中でこういう風になることを「美味しい」というのか。」 

いろんなものに興味を持つきっかけになったのは、「美味しい」というこという思いがあり、重要な言葉でした。  ご飯を食べ始めた頃、母さんがどんな意味でどんなもんかは僕は知らない。  その人に気づいてもらうための音なんだと思って「母さん」って言ってましたが、僕の母さんという風には感じていない段階だったと思います。  母さんはいっぱいいるけれど、あの人だけは僕に凄く一生懸命な母さんだという話を友達にしたら、「それはお前の母さんやから。」、「あの人はお前だけの母さん」、「どんなに大変なことになってもあの人がそこまでしてくれるというのは、お前はあの人の子だから。」と言われて、気付くきっかけで、他のどの人とも違う凄い力を持っているんだなあと思いました。

3か月後に母親の努力で大学に戻ることが出来ました。   途方に暮れていると、手を引いてくれる人、一緒に行こうという人が必ずいました。   食堂の食券も何が何だかわからなかった。  食べた事がない感動が毎日ありました。   いろいろな凄い感動を平静に装ってはいました。  大学までは3本乗り換えがありましたが、駅名が漢字で読めないし、音、色、数とかで、半分山勘で降りていました。  学校に行くつもりが和歌山、神戸にいたりもしました。  今考えると凄い冒険でした。  

切符を買う事を教えてくれる人もいれば無視する人、怒る人そういったことを見極めることが大変で、人に接したくない、人に迷惑をかけるなら姿を消そうと思って、最終的に行き着くのが山のなかでした。    家族が探してまた家に帰って来ました。  逃げる、避けることを止めた一番のきっかけは、或る日夜中に、そーっと出て行こうとしたときに、母が気付いて、「優介どこに行くの。」と言ってきました。  「一人になりたい。」と言いました。  言い合いになり、玄関から出て行こうとしたら母が「優介はどこにも行かせない。 優介は母さんが生んだ子なんだから。」と言って涙ながらに止めました。  この人にこんな顔をさせるなんて、俺ってなんて奴だ、と思いました。  出てゆくことを止め、母は崩れ落ちました。

母を喜ばせることは自分の喜びでもあり、楽しみなので、大きく変わるきっかけはあの日のことでした。   大学には7年通って卒業しました。   染色家としては、1996年に京都の染色家・奥田祐斎さんに弟子入りしました。  自由に草木染をさせてくれる解放感がありました。   染工房夢祐斎を設立。  同じように記憶を無くしてしまった人には何人も会いました。   その場に立ってその先を見た時に、楽しいワクワクすることが沢山あって、ご飯を食べる、会社に行ける事、帰る家がある事、そばに待ってきてくれる人がいる事など実はこんなに一杯幸せを持っていたと、前向きに気付いてもらいたい。      今、18年分なくても、誰にも負けないぐらい凄い幸せになれる笑顔を沢山の人に貰ったので、過去とつながったとしても今の自分ではなくなるのが凄く怖い。   今のままの自分で生き続けたい。  今日生きていることが一つの記憶になってゆくから、過去を取り戻そうとするのではなくて、今日から何かを始めればいい、と思います。  記憶、思い出を一言で言うとエネルギー。  だからこれからも頑張ろうという人間を成長させるエネルギーになります。